下鴨神社

小鬼は少し戸惑っている。もう暗い境内、いつもならとっくにガランとして、鳥居までのだだっ広い一本道を存分に走り回れる時間だからだ。
しかし今日はその一本道の端にたくさんの荷物やテントが鎮座しており、のぼりも立っている。走り回るのには邪魔で仕方がないが、小鬼はしょうがなくテントや荷物の上を飛んだり跳ねたりする遊びに切り替えた。
これはこれでなかなか楽しめそうだ。
ぴょんぴょんと機嫌良く遊んでいたのだが、ある荷物に飛び乗ったところで、小鬼は立ち止まった。

何かが聞こえる。

小鬼は耳をそばだてた。

「……すけて」
「た……すけて」
小鬼は驚いて辺りを見回した。
「たすけて」
やがてはっきりと足元からそう聞こえた。
小鬼はその大きな荷物から飛び降り、かけてあった布を恐る恐るはぎ取った。
布の下には本棚が現れ、その中にはたくさんの、少しカビ臭い本がぎっしりと詰まっていた。
もう一度耳を澄ませる。何も聞こえない。小鬼は勇気を出して「どこにいるの」と呟いた。
「わからないの」消えそうな声が返ってくる。
「もう一度声を出して」小鬼は言う。
「たすけて……」また小さくなった声が聞こえた。

本の中だ

小鬼は本棚の本を一つずつ取り上げた。すると「わっ」と本から声が上がった。茶色く変色し、かさかさとした手触りの、とても古めかしい本だ。
「この中にいるの?」
「出して。ここから」
「わかった、今すぐ……どうやって?」
「わからないの……」
小鬼は本を大事そうに持ちながら、立ち尽くした。どうすれば良いのかわからない。けれど消えそうな声に、小鬼は焦った。
「待ってて、神様に聞いてくる……いや、一緒に行こう」

「ふむ……何とかしてやりたいのはやまやまやけども、わし、縁結びの神なんよ。縁は結んだげるけど他のことはできんのよなあ」
「そんなあ。それじゃこの子はどうなるの? とても弱ってるよ。消えちゃうかもしれない」
「ふむ……他の神に頼むしかないな」
「ほかのかみ?」
「そうや。しかもや、よく聞けよ、あのな、神というもんはな、毎日何千何万という願いを聞き続けてんねや。それをな、なかなかどうして一つだけ摘み上げてやるということは難しい。だからな」
「うん」小鬼はもうほとんど諦めそうになりながら、それでも神様を見上げて一生懸命聞いている。
「直接お願いに行きなさい」
「直接?」
「そうや。そうと決まれば急ぎや。場所とスケジュールはみっちゃんに聞きなさい。おおい、みっちゃん」神様がそう呼ぶと、一陣の風が吹き、そして次の瞬間にはもう小鬼の前にみっちゃんが現れていた。八咫烏のみっちゃんだ。
「みっちゃん、説明したげて」そう告げると、神様は紙と筆を取り出して何かを書き始めた。
「小鬼」
「うん」
「チミの願い聞かせてもろうたけど、そんなら福井に行かんといかんね」
「福井?」
「うん。福井の岡太神社いうとこ。そこに紙の神様いるからね、その神様に頼めば何とかしてくれるかもしれんね」
「わかった。ありがとう」聞くや否や、小鬼はすぐに走り出そうと踵を返した。
「いや待ちなさいよ。行き方、わかるん?」
「……わかんない」
「そうやろ。チミはいつも早とちりなんよ。僕が付いてったげるから。面会可能な時間帯とかもあるから」
「ありがとうみっちゃん」
「ほなら僕ちょっと靴履いてくるから」
そう言ってみっちゃんはまた風と共に支度をしに行った。
「みっちゃんの説明は終わったみたいやな。ほなこれ、持って行き。向こうの神様に渡すんやで」
そう言って神様が手渡してくれたのは、二通の手紙だった。宛名は難しくて読めなかったが、小鬼はそれを丁寧に胸元にしまった。
「ありがとう神様」
「ふむ」神様は小鬼の頭を優しく撫でた。
「おおいみっちゃん。まだか」
「はい。支度が整いました。すぐに出発します」みっちゃんがまた風と共に戻った。みっちゃんの足には、小鬼が見てもヨソイキだとわかる、履き慣れていなさそうな靴が履かされていて、小鬼は少しおかしくなった。
「その本、僕が背負ったげるから。おんぶ紐も持って来たから」そう言うとみっちゃんは器用に紐を使って、自分の背中に本をしっかりと巻き付けた。
「ありがとうみっちゃん」
「ふむ。ほならわし、仕事に戻るからね。二人とも気をつけて行くんやで」
「はい」

みっちゃんの先導に従い、小鬼はとにかくとにかく走った。息が切れても、足の裏が痛くなっても、少しも休まなかった。そうやってがんばればがんばる程、少女を助けることができるような気がした。逆に少しでも休めば、もう助からないような気がして怖かった。
「もう少しやよ。ちょっと休む?」
「ううん。このまま一気に行く」
足はとても痛かったが、小鬼は更に速度を上げた。するとようやく正面の少し遠くに、赤い鳥居が見えた。遠くからでもはっきりとわかる、立派な鳥居だ。
二人は鳥居をくぐり、そのまま真っ直ぐに本殿に向かった。
「ちょっと早かったな。あと五分ぐらい待たなあかんよ」
参拝できるまでもう少し時間がある。本殿の扉もまだ閉まっている。
小鬼とみっちゃんは周りの木を眺めたり、いろんな形の石を集めたりしてその時を待った。
すると、山の方から音がして、こちらへ何かがどんどん近づいて来る気配がした。小鬼は身構えたが、目の前に現れたのはたくさんの猿だった。猿たちは小鬼らに気を止めることもなく、境内の方々へ散って行く。
「よし。ほなら行くよ」みっちゃんも猿たちに気を止めることもなく、本殿の方へ進んで行く。そして本殿の扉を開けていた猿に話しかけた。
「あのう、神様に御目通り願いに来たんですが」
すると猿がみっちゃんに振り向いた。みっちゃんにの頭から足までを一瞥すると「なんの御用ですか? まずは私が承ります」と深々とお辞儀をした。
小鬼はたどたどしくも一切を説明し、胸にしまってあった手紙を渡した。手紙を受け取った猿は、何も言わず本殿の方に行ってしまった。しかしすぐに本殿の方から呼ばれる声がした。
「こちらへどうぞ。神様がお呼びです」

「よく来たね」神様はそう言って二人を暖かく迎えてくれた。
「手紙は読ませてもらったよ。これがその本だね?」
「はい。さっきまでは、小さな声で返事もしてくれたんだけど、今は話しかけても答えてくれなくなっちゃった。神様、この子は大丈夫なのかな」小鬼の声が不安で揺れている。
「顔を上げてごらん。この子は今は眠っているだけだよ。でもそうだね、確かに弱ってる」
「助けられる?」
「ああ。ここから出してやることはできる」
「本当?」小鬼の声が少し大きくなる。
「本当だよ。でも、それだけでは足りないねえ」
「どういうこと?」
「この子は……そうだね。こちら側の子ではないんだよ。ちゃんとむこう側へ帰してあげないと、本から出られてもすぐに消えてしまうだろう」
「むこう側? そっか。よくはわからないけど、なんとなくわかるよ。でも、じゃあどうすればいいの?」
「お前は賢い子だね。じゃあ石川に行きなさい。石川の白山比咩神社だよ。そこの神なら、こちら側と向こう側をうまく橋渡ししてくれるはずさ。そうそう、これも持って行きなさい」
神様は小鬼に手紙を手渡した。
「お前の所の神様が書いたものだよ。二通の内の一通は白山比咩神社宛てだったのさ」
「ありがとう神様」そう言うと小鬼は早速駆け出した。
「ま、待って待って」駆け出した小鬼をみっちゃんが止める。
「あのう神様、本の子は……」
「ああ、説明がまだだったね。もうその本にはまじないをかけておいた。その子はいつでも出られる。けど今は眠っているからね。寝かしといてあげなさい」
「わかりました」
「さ、お行き。あまり時間がない」神様は本をみっちゃんの背中にくくりつけると、二人を優しく見送った。

またも小鬼は走る。
あの子は眠っているだけ。いつでも出られる。その言葉に安堵した。忙しなく羽ばたいているみっちゃんの背中を、小鬼は一瞥した。

足の痛みが一層増して、立ち止まってしまいそうになった頃、ようやく目当ての鳥居が見えた。落ち着いた色の、石の鳥居だ。小鬼は無意識に足を緩めそうになるが、「あかんよまだ急がんと。鳥居をくぐられんようになるよ」と言うみっちゃんの声に、再び足を速めた。
うっすら辺りが明るくなり始めるなか、二人は急いで鳥居をくぐった。そのまま一気に階段を上る。小鬼がちらと振り返ると、鳥居はもう姿を消していた。小鬼は再び前を向き、最後の力を振り絞って階段を駆け上がった。
最後の一段をやっとの思いで上りきると、目の前に立派な構えの本殿が現れた。小鬼は手を膝につき、上がる息を整える。そうしながらも目は本殿に釘付けになる。その荘厳な佇まいに少し気圧されそうだ。
「行こう」立ち尽くす小鬼をみっちゃんが促し、二人は本殿へと進んだ。
すると、「何の用だ?」
突然の声に、二人は辺りをきょろきょろと見渡した。誰かがいる気配はない。尚も辺りを見渡していると、小鬼の目の端の方で、何かが微かに動いた。咄嗟にそちらを見ると、二体の狛犬の内の一体が大きく背伸びをし始めた。存分に体を伸ばすと、すとんと小鬼の前に降りて来た。狛犬は小鬼をまじまじと眺めながら、小鬼の周りを一回りした。
「む……お前が胸にしまっているそれが用だな。早く出せ。時間がないぞ。神様はもう行ってしまわれる」
「あ、はい! あの、これ……」小鬼が手紙を差し出すと、狛犬はそれを咥えてすぐに本殿の奥に消えて行った。二人はそれをポツンと見送っていたが、すぐに狛犬は戻って来た。狛犬の後ろを速足で付いて来る人もある。
「あれ、神様やよ」みっちゃんが小鬼に耳打ちで知らせてくれた。
「よお間に合ったね。用事はその本の子だね?どれ、見せてみなさい」
小鬼はみっちゃんの背中の紐を外し、本を神様に手渡した。
神様はそれを受け取ると、早速本を開き、大きく息を吸い込んだ。そして次の瞬間、神様の口からはとてつもない勢いの炎が吹き出した。その炎をまともに浴びた本は一瞬にして真っ赤に染まり、もうもうと煙を上げた。

小鬼は言葉を失った。全身から力が抜け、燃え上がる炎を見ているしかなかった。
炎があっという間に本を燃やし尽くすと、小鬼は膝を地面につき、へたり込んだ。みっちゃんも地面にすとんと降り、あんぐりと口を開けている。
二人ともが交わす言葉もなく、もう燃え尽きかけている本を呆然と眺めていると、くすぶっている煙の中で何かがゆらめいた。
それを見たみっちゃんは慌てて飛び上がり、両の羽根を精一杯ばたつかせた。
そうしてみっちゃんが送った風によって煙がすうっと晴れると、そこには女の子が立っていた。弱々しく立っているその女の子は、真っ直ぐに小鬼を見ていた。

「悪いが見つめ合っている暇はないぞ。もう、かはたれ時が来る。今を逃すと、この子は消えてしまうだろう。来い」
そう言うと神様は女の子の手を引いて、本殿の奥に向かって行った。
「お前たちも行っていいぞ」狛犬が促す。二人は後に続き本殿へと入った。
しかしすぐに「ここまでね」と、狛犬は線引きをするかのように、小鬼たちを制止した。
奥の方では、神様は女の子の頭に手を当て、何か呪文のような言葉を唱えている。女の子は目を閉じてじっとそれを聞いているようだ。

小鬼の目から涙が溢れている。

女の子が行ってしまう。
そのために、足を血だらけにしてまでここに来た。それなのに小鬼は寂しくて寂しくて仕方がなかった。

一緒に遊びたかった。
か弱く消えそうな声しかまだ聞いたことのない女の子の、楽しく弾むような声はどんな声だろう。一緒に駆けっこをしたら、どんな顔で笑うのだろう。
本当はそれが見たくてここまで来た。
それに気が付いてしまうと、小鬼の目からはますます涙が溢れた。

神様が、女の子の頭から手を離した。目を開けた女の子は、神様に深く頭を下げた。
いよいよ行ってしまう。小鬼にもそれがわかった。

女の子が小鬼を振り返った。何か言いたそうに口を動かそうとしていたが、何も言えないままに、女の子はそのままふっといなくなってしまった。

下鴨神社では今年も古本まつりが開かれている。毎年多くの店が出店し、夏の盛りをたくさんの人の熱気がさらに盛り上げている。参道の両脇は本と人で溢れ返る。

そこに毎年欠かさず通う一人の女の子がいる。特別本が好きということでもない。というよりはむしろ少し苦手だった。けれど欠かさず通うようにしている。本を探しながら、本当は自分は何か別の物を探しているような気分になった。何か大事なものを忘れているような、そんな気がしてならない。

うだるような暑さに目眩を覚え、女の子は一旦まつりを離れて御手洗池に向かった。御手洗池に足をつける。ひんやりとした感触が全身に伝わり、ほっと一つ息をついた。
ふと水面を見ると、自分の顔が映っていた。しかしなぜか頭から、ツノが生えている。それに気付いた時、水面が大きく揺らいだ。そこにある顔は、もう自分の顔ではなかった。

自分を助けてくれた、あの、ツノの生えた男の子だった。自分の頭の中を清涼な川が流れ、隅々まで満たされていくような気分だった。
男の子と目があった。男の子はとても驚いている様子だった。

女の子は咄嗟に走った。拝殿に走った。お賽銭を入れ、柏手を打ち、一心に祈った。お願いをした。

お礼がしたい。助けてくれたあの男の子に会って、心からお礼を言いたい。どうかあの子に会わせてください。

どれくらいそうしていただろう。
しかしぎゅっと閉じた目を開け、強く合わせた手を下ろし、ゆっくりと顔をあげたその時に、大きく一陣の風が吹いた。
そしてその風は、本殿へ向かって勢いよく飛んで行った。

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