「飽きる」ことは「継続」の敵であり「新規」の味方である
漢字変換がやたら馬鹿に働いて、タイトルを記入するだけで随分と手間取った変な小説書きの「なない」です。
えー、早速本題。
飽きています。
なにに飽きているか。
いろいろです。
小説に飽きた
なんということでしょう。
TS系の小説をがぼがぼっと一気に書いてやるぜと息巻いていた数日前の気概がなくなり、昨日などは1文字も書いていませんでした。
プロットでも考えるかーと書きかけた紙もそのままです。
なんと小説を書くことに飽きているのです。
これは困った。
数日後にまたやる気が戻ってくればいいですが、そのまま向こうに行ってしまうと永遠に書けません。
noteに飽きた
「よーし毎日noteに書くぞ」と気合いを入れたのはいつのことか。
それから1週間以上経ち、ついにその気合いも薄れてきてしまいました。
ということで、noteに書くのを飽きたという話をnoteに書いているのです。
noteは特に話題を固定せずに書いていくつもりなので、小説よりは格段に書きやすい媒体です。
しかし、そもそも「自分の考えを書く」という行為、極端なことを言えば「キーボードを打つ」という行為に飽きてしまった場合、どうしようもありません。
うーん、飽きは本当に困った物です。
日常に飽きた
おそらくほとんどの読者の皆さんも同じでしょうが、なんとなく似たような毎日を送っています。
つまり、日常そのものに飽きていくわけです。
日常に飽きて、そして毎日のルーチンに飽きて、ルーチンの小説やnoteに飽きてく。
このように「飽き」は日常から全体を侵食していくわけです。
本当にたちが悪い。
飽き=悪?
じゃあ、飽きることは悪いことなのか、と言われるとそういうわけでもないんです。
そこが難しい。
私の場合、仕事に飽き飽きしてるときに小説を書き始めました。
その職場に飽き飽きして、本当に嫌になって仕事を変えました。
つまり、飽きるから新しいことを始めたり、日常に変化が生じるわけです。
なので、飽きは悪いこととは言い切れません。
奥義は、飽きながら継続すること?
しかし、飽きながら新しい物に出会っていくのはよいのですが、継続したい物を継続できないも困ります。
飽きても継続する……その奥義を修得したい物です。
今見いだそうとしている奥義は「飽きながら継続すること」です。
小説を数日連続で書きましょう。
飽きます。
では、飽きたので小説を書かないでずっと居ましょう。
そうすると、小説を書くことが新鮮に感じられます。
そしてここからまた数日続けられます。
「数日やる」→「飽きて数ヶ月空く」→「数日やる」
というループな訳です。
私はこれをずっと繰り返してきました。
ある意味継続できているわけですが、あまりに間隔が空きすぎてスループットが出ません。
これでは継続できているとは言えません。
「数日やる」→「飽きて2-3日空く」→「数日やる」
これぐらいの間隔でできればかなり量産できるので、「継続できている」といえる気がします。
ということで、数日でまた書きたくなるようにしたいのです。
飽きたら徹底的に飽きた方がいいカモ?
小説を書いているときに、飽きて書きたくなくなったとします。
そのとき、私はそれでもなにができないかと、プロットをいじったりちょっとだけ推敲してみたりしていました。
しかし、それが逆に悪い気がしてきました。
むしろすっきり忘れて頭の中から消した方が、短時間で「書かないこと」に飽きることができる気がします。
書いていなくても書こうとしていると「書かないこと」になっていないので、「書かないこと」に飽きることができない。
変な話ですが、とにかくそういうことです。
つまり、よく言われていることですが、リフレッシュは徹底的にしたほうがいいと言うことです。
リフレッシュの時はその対象を一切考えない!
そう、それがいい!
だから今は私は小説のことを考えない!
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