文章を書くということ


ものすごく久しぶりにnoteからの通知メールがあり、noteというものの存在を思い出した。

以前はちょこちょこ小説についてnoteに書いていたのだが、書くネタが無くなってしまってすっかり忘れていた。

ちょうどもやもやする気分であり、文章を書くことでちょっとすっきりする気がして記事を書いてみることにする。


小説に限らず、書くことを仕事にしていない人にとって書き物というのはいわば暇つぶしである。

暇つぶしであるからして、書かなくて良さそうな物だが、どうもそうでもないらしい。

人は頭の中で言語化できること・できないことを含めていろいろなことを考えている。

しかし、普通に生きているとそれを披露する場というのは意外に少ない。

毎日家族に向かって自信の哲学を披露しているような人も世の中にはいるかもしれないが、だいたいそんな人は嫌われる物である。

毎日会う相手に、聞いてもいない長話を展開されるのは苦痛以外の何物でも無い。

極たまにしか合わない人から変わった話を聞かされるのであれば多少はおもしろいが、やはりそれは極たまにのことであるからおもしろいのだ。

そして、人というのは、聞きたいことよりも言いたいことの方が多いらしい。

だからこそ、聞き上手は歓迎されるわけだが・・・。

とにかく、人はいろいろ考えているが、普段はそれを披露する場を得ることが難しい。

ところが文章という物はそれを披露することが出来るし、しかも今現在相手が居る必要は無い。

「いずれ読む人がいるだろう」という目論見があるだけで、考えを人に披露した気分になれる。

つまり、もやもやして何かを言いたくて仕方が無い人にとっては、文章を書いてネットに公開するというのは他に代えがたい行為なのである。

ってなことを、先ほど思いついた。


思うに、小説を書くこともこういった雑文を書くことも、似たようなものだろう。

思いついた物が物語であれば小説を書くことになる。

頭の中に物語が湧き出ているときに小説を書くことは、作者にとっての表現だ。

乗りに乗って書いているときの気持ちよさは他に代替品がない。

ところが、「小説家」という人間はいないので、小説を書く人間でも時には物語以外の物が頭の中をうろうろしているときがある。

そんなときに小説を書こうとするとどうなるか。

自分が思っていることの表現では無く、物語の筋を破綻させないために義務的に書く「作業」になってしまう。

つまり、非常につらい。

結局、人はそのとき自分の頭の中にあることしか表現できないのだと思う。

だから、自分の場合は「小説を書くとき」と「雑文を書くとき」の両方が必要だと思っている。

小説を書いていてスランプになった人は、雑文を書いてみるとスランプ解消になるかもしれない。


自分にとって小説というのは、良くも悪くも「妄想」である。

現実とは違う世界で自由に物語を展開させて遊ぶ場所である。

自由でおもしろいが、精神的な効能以外に実利はない。

自分にとって雑文というのは、自分の考えを書くことであり、ある程度現実に立脚している。

小説よりは多少の現実的な効能がある。

「小説で自分の考えを書いたらいいじゃ無いか」と思う人もいるだろうが、自分は説教臭い小説を読んで非常にしらけた気分になったことがあるので、小説の中で持論を展開するのはあまりよくないと思っている。

ある程度は出来ないことはないが、物語の「サブ」としてしか表現できない。

作者としてはそのとき言いたいことを「サブ」として、「メイン」はそのときに言いたくもない「物語」を書かないといけない。

つまり、作者としてもあまり気持ちよくない。

そして、読者も「説教臭い……そういうのじゃなくて面白い展開がみたいんだけど」とストレスがたまる。

こんなかんじであんまりよろしくない。

そして、自分の中で実感としてあるのは、「物語の中の説教は読者に届かない」ということ。

言いたいことがあるなら物語を通して説教くさく語るより、エッセイとかでしっかり主張した方が伝わる。

ということで、物語以外のものを表現したいときに小説を書くのはあまりよくないと感じている。


なんだかわけのわからない内容になってしまったが、言いたかったことは2つ。

・人には表現の場が必要。文章を書くのは大事な表現の場であり、精神にとってとても大事である。

・物語を表現したいときは小説を書き、それ以外を表現したいときに無理に小説を書くのでは無く雑文を書くべき


たいした内容ではないが、突発的に書きたくなったので・・・。

まぁ、よし、と。

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