どうも私は「発見者」らしい

人生の停滞感について書こうとして、つらつらと考えていたところ、私は発見者タイプであることに思い至った。

こう書いても何を言っているか分からないと思うが、順を追って書いていきたいと思う。


人生の充実感を感じるとき

生きていて充実感を感じるのはどんなときだろうか。

それは人によって違うだろう。

ゆったりと雰囲気のいい場所で雰囲気を楽しんでいるときという人も居るだろう。

バリバリ仕事をしているときという人も居るだろう。

あるいは、子供の世話をしているときと言う人も居るだろう。

いろんな人が居ると思う。

ただ、私は「発見をしたとき」が充実感を感じる時らしい。

一般的に言われる「幸せな空間」「楽しい空間」にいても充実感という物をあまり感じれないのだ。


発見とは?

発見とは知らない物を知った瞬間のことである。

大学でなにかを学ぶのも発見であり、そこには充実感があった。

会社に入って知らない物を学んでいくのも発見であり、大変ではあったがそこそこ充実感があった。

しかし、なれてしまうとそこに発見はなくなり充実感が全くなくなった。

そしてつらくなり、いろいろあってやめた。

そして、その後はフリーランスになり会社の時と同じように設計の仕事をしている。

生活パターンが変わったことにより、いろいろな人や物事を発見し、フリーランスになった直後は発見で満ちていた。

しかし、フリーランスになって2年以上たち、またもや発見が減ってきてしまった。

会社の時よりはましであるが、やはり発見はどんどん減っていく。

こうして私は充実感の無い生活を送っている。


小説を書くことは「発見」

そんな私にとって小説を書くことはなんなのかというと、「発見」なのだ。

「創作」「設計」「製造」といった物では無く、「発見」なのだ。

設計と発見の違いを説明しよう。


どういう物語にしたいか考え、計画し、プロットを書き、そしてそれを元にして本文を書く。

これは設計と製造による創作である。

ところがこれは普段の設計の仕事と全く同じであり、そこに私の人生の充実感は無いのだ。

設計は非常に好きなのだが、それだけでは私の人生は充実できない。


では、私の小説の書き方というのはどう違うか。

まず、あるとき物語の核となるコンセプトのようなものを「発見」するのである。

他の作品からインスピレーションを受けることもあれば、仕事中に思いついたこともあった。

とにかく、物語の「核」となる場面や人物を発見するのである。

そしてそれを手がかりにその周りの場面を発見していくのである。

そうすると、それが物語っぽくなっていく。

それをうまくまとめたのが私の短編である。

これが「発見」による「創造」だ。

ただ、「発見」の手法は本当に発見していくだけなので物語がどこにいくのかなんてことは分からない。

おもしろいのかつまらないのかすら、発見してみないと分からない。

そして、大概の場合、断片は見つかるのに、まとまった小説という形をなさない。

それが私のPCに眠っているテキストの山である。


他人の作品を読むことも「発見」

実は私にとっては他者の作品を読むことも「発見」の一つである。

幼いことはまだ何も知らなかったので、どんな物を読んでも発見であった。

しかし、年月を生きたことで、多くの物語を発見してしまった。

私が知っているAをまねしたA’を読んでもそこに発見はほとんどない。

だから私はテンプレ作品をなかなか読めないのだ。

「テンプレでもよく出来た作品ならそれでいい」という人も多いようだが、自分の場合、自分が推測できる展開で固められた作品ほどつまらないものはない。

そこに発見はないからだ。

だから、他に無いアイディアを含んだSF作品が好きだったりするのだ。


小説を「発見」するとは?

さきほど小説を書くとき「小説を発見する」と書いたが意味が分からない人も多いだろう。

「小説という物はプロットがあって、その通りに書いていく物だ。発見して書くなんて意味が分からない」

そういう意見はよく分かる。

ところが、私の場合はそうではない。

私も前回の変な長編で苦労したことから、「プロットに落とし込んでから書こう」と主張しているし、それについても記事を書いた。

しかし、本質的に私の「発見者」の資質と相性が悪い。

小説というか「物語を発見する」ということの意味を説明したい。


まず、あるとき、他の作品からのインスピレーションか買い物中か、散歩中か、なんだかわからないが、とにかく突然にある「モノ」が頭の中にわいてくる。

それはあるワンシーンかもしれない。

あるときは静止画の映像、あるときは動画、あるときは台詞。

場合によっては、そういう具体的な場面では無く「コンセプト」かもしれない。

「この転生系クソラノベにはヒロインが居ません」はまさにコンセプトから発生した作品だ。

本屋でWEB小説系の本をめくっていたところ、どの作品でも主人公がやたら強くてかわいい女の子がたくさん出てくる。

それを見た私は、突然「主人公男なのに女の子が一切出てこない転生モノ」を発見したくなったのだ。

しかし、そんなものはなかなか見当たらない。

だから、自分の執筆能力を使って発見したのだ。

もし自分が望む作品を発見できていれば、自分で書くと言うことはしなかっただろう。


そして、「物語の核」を発見した後は、場面を発見していくのだ。

これまでの私のやり方だと、「こういう人が居た場合、こういうことが起こるのではないか?」と考え、場面を発見していった。

ただ、このやり方だと断片しか発生しないため、ほとんど形にならずに終わっている。

それでは困るので、前作は順次場面を発見していくことにした。

時系列と無関係に場面を発見していたのをやめ、時系列順に発見していくことにしたのだ。

つまり、主人公AというキャラクターとBというキャラクターを環境Cに突っ込むのだ。

そうすると、主人公AかキャラBが反応する。

そして反応が反応を呼び、会話が始まり、行動を始める。

こうして私は「AとBを環境Cに置くとこういう行動をする」という発見をするのである。

私の書き方は「主人公が○○するように誘導しよう」「キャラBが○○するように誘導しよう」という操作をほとんどしない。

プロットを書く場合、筋に沿った動きをさせるために作者が主人公を誘導しないといけないが、私はそれがすごく嘘っぽくて嫌いなのだ。

だから私はプロットと相性が悪い。

結果として、主人公やキャラクターは作者という私が想像していなかった方に話を転がしていき、私はそれをみて楽しんでいるのだ。

私はこうやって書いている。

本当に危なっかしい書き方であり、「長編が完結することが奇跡」となってしまう。

誰にもお勧めしないが、私はこういう書き方しか楽しめない。


最後に

本当は自分が「発見者」という気質であることをつらつら書きたかったのだが、結果として小説論になってしまった。

しかし、「物語を発見する」ということについてはまだいろいろ書ける気がするので、また次の機会にでも書いてみたい。

特に、「物語を発見しながら書くこと」と「プロット」は相性があまりに悪く、長編がきちんと完結しない。

そのあたりについても考察が必要そうだ。




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