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要約 『群衆心理』 ギュスターヴ・ル・ボン

群衆の時代

 国家の運命が決定されるのは、もはや帝王の意見によるものではなくて、群衆の意向によるものだ。
 群衆は、推理の能力こそほとんど持たないが、これに反し、行為には甚だ適している。
 幾多の文明はこれまで少数の知識人によって創造されてきた。それは決して群衆により作られたものではない。群衆が持つのはただ一つ、破壊力だけである。群衆が支配の層につくとき、必ずや混乱がもたらされる。

群衆の特徴

 群衆とは任意の個人の集合を指す。それは構成員の種類を問わず、集合の機会の何如をも問わない言葉である。

 言語的にはそれ以上の意味をこの言葉は持たないが、心理学上で「群衆」という言葉を観察したとき、そこには新たな意味が付け加えられる。すなわち群衆中においては、各構成員の意識的な構成が消え失せて、あらゆる個人の感情や観念が同一の方向に向けられる、ということだ。これを心理的群衆と呼ぶ。

 心理的群衆には多くの科目が存在する。しかし同時に、どの群衆種においても通底する性質もまた存在する。それは、単に個人が群衆になり変わったという事実だけで、その個人に一種の集団精神が与えられるということであるということだ。この集団精神が宿った個人は、もはや元の個人ではない。感じ方、考え方、行動の仕方などのあらゆる側面において、彼は自らに宿った集団精神の影響を受ける。

群衆と精神

 知能の点では、著名な数学者と一般人の間には大きな隔たりがある。しかし感情の点では、両者の間にはほとんど差異が無い。つまり、個人が結びつき群衆が形成された後に一般的性質として残存するのは、感情である。例え傑出した知能を持つ個人が群衆に混入したとしても、それは一般的では無いが故に埋没し、集団の性質としては残り得ない。

 従って、群衆においては構成する個人の個性、知能は反映されず、各人に通底する感情のみがその精神として発現する。群衆は言わば、知恵ではなく凡庸さを積み重ねるものなのだ。

群衆の特性

 群衆が凡庸さを積み重ねるだけのものであるならば、凡庸な一個人と比して変わりない性質を持つだけである。しかし群衆は、凡庸さを積み重ねた後、群衆特有の特性を獲得する。

 群衆に特有な性質は多くある。大きなところをあげると、本能的な行動を行えるようになるということ、精神感染が起きること、被暗示性を獲得することなどである。

 まとめれば群衆の特性とは、意識的個性の消失無意識的個性(=感情、本能)の発現暗示と感染による観念の統一である。群衆中にあって、もはや彼は個人ではなく、自らを自らでコントロールできない人形と化す。

 行為という点においては、群衆が個人よりも優れた結果を出すことは往往にしてある。しかし、全ての群衆は知能の点では単独の人間に劣る。これは常にそうである。

群衆の感情

 群衆はもっぱら無意識に支配される。無意識とは、外部の刺激によって喚起される感情、本能、衝動などである。群衆は、一旦想起された衝動の奴隷である。それを制御する理性を、群衆は持ち合わせてはいない。

 群衆の感情の善悪を判ずることはできない。何故ならば、群衆は自らに与えられる刺激によって種々の感情を得るからだ。悪逆や犯罪への志向を抱いた群衆はもちろん道徳的に悪であろう。しかし同時に彼らは、献身的、英雄的な感情をも発現することができる。時として自己保存の利己心すらをも捨て去ることができる。ならば一概に群衆の内に発生する感情を悪と断定することはできない。

 群衆は衝動的で、動揺しやすい。そも意味で群衆の感情は、風に舞い上げられる木の葉に似ている。それは風(刺激)によって、あちらこちらに散乱し、高く舞い上がりもすれば、木から落ちもする。

群衆と暗示

 群衆は何かを期待し、かつ集中状態にあるため、暗示にかかりやすい。そして一度暗示が与えられるとそれは精神感染により全体へと敷衍され、頭脳に刻み込まれ、即座に感情への転換を起こす。

 群衆は心象(イメージ)によって物事を考える。群衆中においては、刺激と行為の間に論理的思考は存在しない。群衆を構成する個人の精神的素質も、この原理に抵触しない。個人が群衆に加わるや否や、無学者も学者も、等しく観察、思考の能力を失う

群衆と制御

 群衆はただ過激な感情にのみ動かされるのであるから、その心を捉えようと思うならば、強い断定的な言葉を用いねばならない。誇張し、断言し、反復すること、そして、論理によって何かを証明しようと決して試みないことだ。

群衆と思想

 群衆に受け入れられやすい思想には二種類ある。一つは、偶発的に発生しかつ強い輝きを持つ思想である。カリスマ的指導者の思想、あるいは特定の主義的思想である。もう一つは、力強く歴史を持つような根本的思想である。民主主義や宗教的思想などがこれに当たる。

 しかしどんな思想であれ、その思想が群衆を支配するためには必要な条件がある。それは、思想が単純な形式を以て表現され、かつ心象の形を借りて群衆にイメージを喚起させる、ということである。

群衆と推論

 群衆に全く推論能力が無いかといえば、そういう訳では無い。ただそれが極めて低級なものであるというだけである。
 群衆が行い得る推論とは、概ね連想のレベルである。透明な氷が口の中で溶けるのであるから透明なガラスもまた溶けるであろうとか、隣人が親方に搾取されているからして全ての親方は極悪非道であるとか、そういった類である。

 相互の間に見かけだけの関係しか有しない、相異なる事象を結合させること、これが群衆の行い得る推論の限界である。そして指導者はこれをよく心得ている。指導者は、こういった連想を行えるように群衆に刺激を与えるのである。彼らは、群衆を魅惑する心象を喚起する術を心得ているからして、指導者足り得るのである。

群衆と想像力

 群衆は心象に寄らなければ物事を考えられないのであるし、また心も動かされない。心象のみが、行為の動機になり得る

 ではどういう風にして群衆の想像力を刺激するか?前述の通り、知能や理性に訴える論証ではこの目的は達成できない。群衆の想像力を動かすのは、付帯的な説明から離れ、切実鮮明な心象を喚起するよう、刺激的に伝えられた事実のみである。百の小犯罪は群衆の想像力を喚起しないが、ただ一つの重大な犯罪は、例え百の犯罪を統合したよりはるかに害が小であるとしても、群衆の心を動かすに足る。

 結論すれば、群衆の想像力を動かすものは、事実そのものではなく、その事実の現れ方なのである。凝縮され、心象を喚起し得るに高められた事実が、群衆を刺激する。

群衆と言葉

 言葉と標語とは、巧妙に用いられれば、昔の魔術師が如き神秘的な力を実際に発揮し得る。群衆の精神に嵐を巻起こすことも、またそれを鎮めることも可能である。

 群衆を動かす言葉とは、言葉の真実の意味とは実は無関係である。例えば民主主義や社会主義、自由などの言葉が良い例である。これらの言葉が正確に意味するところを明らかにしようとすれば、大巻の書を以ても足りない。しかしこれらの言葉は群衆の口に馴染む。なぜか。それは、あらゆる問題の解決の鍵がそこに含まれるように感じられるからだ。そこには各々の無形の憧憬を総合し、実現してくれるかのような魔力的な魅力がある

群衆と指導者

 指導者は多くの場合、思想家ではなくて実行家である。明晰な頭脳は不要であり、行動力が必要とされる。常に群衆は、強固な意思を備えた人間の言葉に傾聴するものである。

 指導者が群衆の精神をコントロールしようとする際に用いるのは、断言と反復と感染である。(すなわち、群衆の特性を利用することに他ならない)
 推理や論証からかけ離れた無条件で簡潔な断言を呈し、反復し、感染作用が生じれば、全体の意見は一致する。

群衆と世界

 世界を導くものは、究極においては知性である。しかし知性は、極めて間接的に世界を導くに過ぎない。

 知性は知識あるものから生み出され、指導者により単純明快な形に落とし込まれ、断言され、反復され、群衆に感染して初めて、市井に届く。


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