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ダレカにスキを求めるのは悪いことか?

スキと好意と下心

誰かの note にスキを押す。note に住んでいる人ならば、誰もが行なったことのある行為だ。

けれどふと思う。「スキ」とは何だろうか。

言葉の意味するところをそのまま取れば、「スキ」とは「好意の表現」だ。
貴方のnoteに共感した。貴方の感性が好きだ。貴方の言葉は美しい。
何であれ、「貴方」を肯定しようとする思いの表出だ。

「スキ」を貰えると、嬉しい。だってそれは、私に向けられる無条件の好意なのだから。私に失うものはなく、ただ与えられるだけの、ちょっと他には無いプレゼントだ。

けれどもこの快感は、時に下心を生む。

「スキと言って欲しい。だから私は貴方のnoteにスキしよう。」

この時「スキ」は、「貴方への好意」としてのスキではなくて、「私をスキになって」としての「スキ」へと変質する。

そして敬意を払うべきだった唯一無二の「貴方」は、「私」にスキをくれる「ダレカ」に変容する。「貴方」が「貴方」である必要は、無くなる。


承認欲求が画面の向こうの貴方を「ダレカ」にする

それを「悪」だと切り捨てることは簡単だ。
断罪者は口を揃えてこう言うことだろう。

「貴方は自分の承認欲求を満たすのに他者を利用しようとしている。直ちに其れを止め給え。其れは『スキ』の本来の目的から大きく外れている。」

恐らく、理は彼らにあるだろう。彼らの武器は辞書と道徳だ。
「好き」と言う言葉の定義を引き、「好き」という言葉の重みを道徳から引き、これが社会の総意であると刃を突きつける。そして「在るべき姿で在れ」と、社会は貴方の行為を断罪する。

けれどもここで一つ、考えてみよう。

本当にそれは、悪いことだろうか?

自分を見て欲しいために他者にスキを送るのは、悪いことだろうか?


シュレディンガーの私

貴方が貴方であるために必要なものは、何だろうか?

友人が必要?家族が必要?それとも自分一人で自分足り得る?

答えは十人十色だろう。

私ならばこの問いに、「他者」と答える。

私は、「私」を認識する他者が居て「私」足り得ると思っている。
そしてその認識に応えようと思い、明日の「私」が生まれるのだと思っている。

ではもし、他者が居なければ?

「私」を認識する人が居なくなれば、「私」は「私」足り得ない。
明日の「私」に漸近しようという意思も失われてしまう。

だから「私」には、「私」を認識する「ダレカ」が必要なのだ。


「ダレカ」 が貴方を形作る

それは承認欲求だよと言われるかもしれない。否定はしない。
けれども反論はしよう。

貴方は人間の欲求を否定するのか?
飢える人々の苦しみを醜い食欲だと切り捨て、青春時代に憧れのあの子に抱いた恋心を性欲と吐き捨て、人に認められたいという気持ちを悪だと唾棄するのか?

貴方は話の次元が違うと憤られるかもしれない。けれども本当にそうだろうか。

マズロー氏の欲求階層説を信じるならば、衣食を求める欲求も、安全を求める欲求も、そして承認を求める欲求も、どれも切実なものだ。

切実なればこそ、他者を求める気持ちにウソは無い。

「ホントウ」の心にしたがって、「私」が「ウソ」の「スキ」を「ダレカ」に届ける。

これは、「悪」か?


優しいウソで回る世界

「ウソのスキ」を作り出す時、私は「ダレカ」になる。

「私」は「ダレカ」になって、「貴方」が「貴方」足り得るお手伝いをする。

すると今度は「貴方」が「ダレカ」として「私」に「ウソのスキ」をしてくれる。

その時、「私」が「私」足り得る。


この優しいウソの海では、誰も傷つかない。誰もがお互いを必要として誰もが助け合う。

傷の舐め合いと唾する人もいるだろう。

それは的を射ている。
傷を持つ私たちは、互いにその傷を癒す。
健全な姿に至る道の途中に、きっと私たちはいるのだ。


「ダレカ」に「スキ」を求めるのは悪いことか?

私はそれを、悪いことだとは思わない。

そのために「ウソ」をついたとしても、良いのか?

私はそれは、悪いことだとは思わない。


家族や恋人以外の人においそれと、「スキ」を口に出来ないこの社会。
ウソであれ軽薄であれ、「スキ」を振りまける場所がどこかに在ったって、バチは当たらないだろう。


と、思う。

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