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【アニメレビュー】進撃の巨人 Season1 第3〜6話

それぞれの目的

シガンシナの悲劇から時が経ち、成長したエレン、アルミン、ミカサは兵士となるべく訓練に臨む。そこで出会う仲間たちも含めて、それぞれの目的でその場に集まっている。

巨人を倒すため調査兵団に入りたいエレン。エレンを守りたいミカサ。自らの強さで生きていけるようになりたいアルミン。食べることが生きがいのサシャ。憲兵団になって内地に逃げたいジャン。etc。

巨人と戦うための訓練を受ける訓練生の中でもその目的はバラバラ。ここまでの危機の中でも人それぞれエゴはやっぱり捨て切れるもんでもないんでしょうね。

矛盾と最もらしい結論

物語の中でセリフとしても出てくる最も能力の高いものが内地へ、巨人と最も離れた場所に行く矛盾。

でもこの矛盾もある一方から見た矛盾であって、もう一方から見れば矛盾しないかも。

王を中心とした最も優秀な人材を集め人民を統治することも重要。結局、世の中に正解も不正解もない。あるのは誰かが決めた最もらしい結論だけ。それは目線を変えればいつでもひっくり返り得る。

巨人も人間も生きるために食うし、戦う。(第3話では巨人は生きるために食うのではなく、殺戮のための行為かもしれないとされてるが)どちらかに正義があるわけでもない。

第4話ではミカサがなぜエレンを守るのかの一端が明かされる。ならず者に両親を殺され、自分も売り飛ばされそうになったところをエレンに救われる。この世は残酷な世界であると、食うか食われるかの戦いの場所と気づいたミカサは人にナイフを向けることへの迷いを払拭する。これがミカサが高い戦闘能力を持つ理由にもなっている。

ならず者たちも人間の倫理や法で見れば悪だが、生物としてみれば自分達が生きるための金を手にするため、ミカサ一家を襲った。その意味では単純に生きるために弱い者を食ったと言える。

現代社会での「この世界の残酷さ」

現代社会では直接的の生命のやり取りは基本なくなったが、この世界の残酷さというのは別の形でも残ってるなと思ったのが、TBSドラマ「明日、わたしほ誰かの彼女」の第1話を見て感じた。

主人公の雪は大学生。彼女は自分の大学の学費と生活費をレンタル彼女の仕事で稼いでいる。大抵の男はレンタル彼女の雪の身体を欲しがる。雪の常連客である壮太は、そんな顧客の中では珍しく雪の身体を求めるのではなく、一緒に過ごす時間を楽しむ。

壮太といる時に本心からの笑顔もこぼれるようになる雪。ただ、やがて壮太は雪が他の顧客とレンタル彼女として過ごすことに嫉妬を覚えるようになる。

壮太は雪にレンタル彼女を辞めてほしいと伝える。しかし、それは雪にとっては、他の顧客が雪の身体をただ欲するのと同様、壮太はただただ雪の心を欲するだけ。

雪は壮太に「私にこの仕事を辞めてって言うってことは、大学の残り3年間の学費と生活費を全て出すってことだよ、それ壮太くんにできる?」と言う。

壮太にとって雪への気持ちは恋愛感情と思ってよいだろう。不器用が故にレンタル彼女の顧客としてしか繋がれていないが、彼のできる精一杯の感情表現。

しかし、それは雪にとっては浅はかな気持ちで雪の心を欲する他の顧客たちと大差なかったんだろう。

この世界は残酷だ。壮太の精一杯では、雪が背負っているものを受け止めきれない。ただの好意ではもはや人と人は繋がれないのかもしれない。

恋愛の戦場化

僕たちの自我は知らず知らずのうちにめちゃくちゃ複雑で重たくなってしまった。その自我にいつも押しつぶされそうに生きてるから、生半可な相手の好意ではそれを受け止めきれない。

結婚したとしても深いパートナーシップを築いていくわけではなく、一時的なもしくは部分的な利害が一致したレベルでの関係性の場合もある。その場合、ちょっとしたバランスの変化で関係性は崩れてしまう。

雪の友人のリナは年上の彼氏ができるが、その男性は既婚者だった。すでに気持ちを完全に掴まれていたリナは深く傷つく。これも弱いものが強いものに食われる残酷な世界の現実。

恋愛ってのは過去のドラマや映画では純粋で希望的なものとして描かれてきた(恋愛なんてそもそもが幻想かもって話は一旦置いといて)。でも、今の現実社会では必ずしもそう機能するとは限らない。欲望や自己顕示欲を満たすための隠れ蓑として使われることもある。やってる本人がそれに気づかないままのこともある。

生命のやり取りがなくなっても、心の奪い合いでは弱肉強食の戦いは続いている。

世界は残酷だとしたら、いつ終わることもない戦いの中で生きていかないといけない。そんな世界に救いはあるのか?

進撃の巨人ではそのアンサーは用意されてるのかな?

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