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十六夜顕現火炎主 其三

十六夜顕現火炎主 其三   作:高星七子

同刻、駝路目鬼国・度嶺口府(どれいくふ)総督・駆符何封呉(クプカ・フウゴ)率いる私兵数十名が宿場町を目指していた。その北門を出た山中に氷のドミネがいるという。

それは翁流土(おうるど)の遊廓きっての花魁、琶寧太夫(べねだゆう)から聞いた話だった。

”国境いの北山中に氷のドミネが巣食って、偉いお人を取り殺していると聞きんした。どうか封呉どの、そのようなところにはおいでなさんすな"

翁流土との折衝に勘定方として赴いてからというもの、封呉は妓楼『沖津風』に入り浸りであった。そこは駝路目鬼国にはないもので溢れていた。波理洲是方のどこにもない、外つ国からの文物が妓楼と女たちを飾り立てていいる。漆塗りの膳や椀には金の蒔絵、部屋持ちの花魁の紅は玉虫色に光り、爪にはびいどろが貼り付けられ、結い上げた髪の櫛簪は鼈甲に琥珀をあしらう豪奢さだ。

 封呉の郷にはない、荒浪を望む二階屋に部屋を持つ琶寧太夫は外つ国から船でたどり着いたと云う。
そのほっそりとした横顔は白浪をたてる海を恨むと見るようでもあり、懐かしむようでもある。どんなにか苦労を重ねただろうに、誇り高く顔を上げている様が封呉には愛しかった。

“怖しい妖魅のいる処になど行くな”と言ってくれるのが、またいじらしい。

 尋常ではない巨躯の封呉に驚きもせず、馴染みとなってからは訪れるたび昔からの幼友達のように懐かしげに迎えてくれる。

これまで女など用のあるとき以外は邪魔なものと封呉は考えてきた。だが、琶寧太夫の美しさ、愛らしさ、勘定方の話に問答もできる賢さ……。いつもこちらの顔色を伺い、怯えた様子の女どもとはまるで違っている。

「わちきもお偉い殿方なら幾人も見てきなんした。大店の旦那衆、お武家様、御用人様……中には一代で国を興した方も」

それは翁流土の国主・籔霧守映薙刄(ざるむのかみ・ばるなば)では、と驚きを禁じ得なかったが、琶寧太夫は言ったのだ。

「そんな方々にも無いものが、封呉どの、ぬしにはありんす」

「どんなものが、あるというのだ」

「さあ、それは……覇気か神仏の御護りか、然りとはわちきには言われぬわえ」

「太夫のような女があるだけで、それがしには十二分かと思うていたが」

封呉は女が惚れた男にやる気になって欲しくてする口説かと合点して、仕合わせを噛み締めた。
膳を静かに退けて太夫の肩を抱き寄せ、襟元の香をかいだ。
久しく憶えのなかった熱いものが目蓋から溢れてくる。

(神よ、仏よ、この女のために万難を退けると誓おう)

この女にはわかるのだ、封呉が大地のドミネと知らずとも「何かがある」と、そう言ったのだから。

「では行くとするか」

封呉は襟元を整え立ち上がった。
ええ? と無邪気に見上げる琶寧太夫に、封呉は愛しさが抑えられない。

「その氷のドミネ、この封呉が仕留めてみせようぞ」

琶寧太夫の白い両手を取ると、跪いてその無骨な額に押し当てた。

「あれ、何をしなさんすか。わちきの言ったことを……」

「それがしを、いやさ俺を、お前の間夫を信じられぬか」

琶寧太夫は封呉の眼をしっかと見つめ首を振る。冷たく白い手で封呉の頭をつつみ、抱きかかえた。

「いいえ、お慕い申しておりますゆえ」

聞くなり封呉は琶寧太夫をかき抱いた。
鈍色の波が、沖津風が聞こえる。

「わちきがぬしを波理洲是方の帝に」

ならば琶寧太夫は世を見通す目をもつ皇后となろう。
小作人の身分に生まれ這い上がってきた自分と、流れついた異郷の女。このふたりで波理洲是方を総ていく……籔霧守が何ほどのものか。

(この女が誰よりも強くあれと望むなら)

途方もない夢が、海風とともに封呉の胸に鳴る。

琶寧太夫はこのとき、封呉の夢であり道を示す天女であった。

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