聖俗二元論跳躍

かつて日本の伝統的な世界観を「ハレとケ(非日常と日常)」と名付けた学者がおりましたが、音楽家なんてものは常にハレの状態にいるか、もしくはそれに向けて猪突猛進、ケなんて蹴散らかして生きているものですから、ハレの状態で興奮しても、それが制御不能の状態になって外に溢れ出るなんてことはめったにないのです。

「こんにちは、君は○○の娘さんかな」
そう声をかけてきたのは全く知らない初老の男性でしたが、父の名前を音読みして呼んだことで、きっと父と近しい友人だったのだろうと推察できました。あの年代の男性たちはこぞって名前の漢字を別の読み方にしたあだ名を付け合うのです。
彼は私が頷くと、こう続けました。
「君のお父さんと50年前に東大オケで一緒だったんだよ」

大学の教授から頼まれて市民オーケストラのお手伝いに行った時、休憩時間のことでした。
父にこの仕事について少し話をしたとき「同級生がいる」とは聞いていたのですが、まさか向こうが私のことを知っているなど思いもせず、話しかけられてあたふたと立ち上がりお辞儀をしました。

「はじめまして」と言った私に、その方は
「実は、君が幼稚園児の頃に一度会ってるんですよ」
そう言って小さい頃の私がどんな子だったか滔々と語りはじめました。
まさかあんなに小さかった子が大きくなって、と嬉しそうに私を見つめるその方の肌にはシミが、手指には皺が、頭部に残る毛髪は艶やかな頭部に夏用の麻の毛布をかけたよう、
けれどサイズの合ったチェックのシャツとジャケットを身に纏い、眼鏡越しに覗く瞳は艶やかな輝きを宿していて、そんな彼を通して私は父親の本当の年齢を見つめたような心地になりました。

「歳をとって体力も落ちてきたし、今回の演奏会で引退をしようと思って」
という言葉を聞いた時、私は思わず
「そんなあ」
と返しました。
咄嗟に、若い女性によくある「弾けない」とか「練習時間が取れないから」なんて言いあう謙遜のひとつだと受け止めたのです。
しかし、そうではないことなんてすぐにわかります。
改めてその方に向き合い
「それは、お疲れ様でした。最後の演奏会ご一緒できて光栄です」
と言いなおすと、その方は
「あんなに小さかった女の子が立派になって、こうして手伝いに来てくれて嬉しいよ。待ってたんだよ」
そう言って微笑みました。

休憩明けの曲は、演奏会のメインにあたる大曲です。華やかでわかりやすいその曲は、何度も演奏したことがありましたから、曲の細部まで知っているつもりでした。
わかりやすい泣きどころも、気を抜いてはいけない場所も。
演奏に集中しながらも、頭は先程の会話を思い出そうとしてしまいます。
微笑んで私を嬉しそうに見つめるまなざしや、
「引退する」という言葉の意味するもの、
自分にもいつか迫ってくる老い、
そして自分の親の年齢。
曲が佳境に入った時、金管楽器の音圧で、まさかまさか、私の感情が溢れ出てしまったのは何故でしょうか。
私は弾きながら涙ぐんでしまったのです。

自分もいつか楽器を弾けなくなる日が来るのだという事実は、驚いたことに、これまで自分の頭からすっぽり抜け落ちていたのです。
そうか、歳を取ると楽器が弾けなくなるんだ!知りませんでした。
ある日突然私は息絶え、でも楽器はいつものようにそこで私を待ちつづけるのだと思っていたのです。
楽器を弾くことをやめる。その決断の奥にどんな感情がしまわれているのか、私にはまだ想像してもたどり着くことができないように思います。

私はあとどれくらい音楽の中で生きられるのだろう。
答えの見えない問いがぐるぐると迫ってきます。
生き残りたい、長生きしたい、ずっとこの世界に身を置きたい。
死後の世界、肉体から精神が離れると言うのなら、私は肉体とともに朽ち果てたいと思っていました。
この指で、この体で楽器を弾けないなんて生きている意味がない、とさえ。

2年前に病気でこの世を去った先生の姿が見えてきました。
病室で、点滴につながれながらも指の練習を欠かさず続けていた先生は、限られた生命をどのように見つめ続けたのでしょうか。
私は先生ともっと一緒に演奏したかった。
先生の見ている世界に行きたかった。
先生、私のこと待ちくたびれたのではないですか。

「ずっと待っていたんですよ」
先程もらった言葉が大音量の響きの中ですとんと私の中に沁み込んできます。
私を待っていてくれている人がいること。
きっと、私がまだ気がついていないだけで、私のことを待っている人はたくさんいるのです。
私が追いつくことを、私が見出すことを。
私が受け取らないと、時の狭間で消えていってしまうほどに繊細な絆。
どうしよう。
喜びよりも先に焦燥感が私を追い立てます。
目の縁で盛り上がる涙は、太鼓の音でふるふる震えます。
涙を落とさないよう顔を上に向けようとした時、その方が視界に入りました。
背筋を伸ばして楽器を構えるその姿は、全身で音楽を味わう気概に満ち、また自分が音楽の一部であることを心から喜んでいる人の佇まいでした。
そこには同情や斟酌の介入する余地など全くなく、彼の追い求めるものを全身で体現しているかのようでした。
私はその姿を目にし、自分の甘さを思い知りました。
私に今できることは、泣くことなどではないのです。

明日、私はどんな光景を目にするのでしょうか。
きっとそれはまだ生まれていない未来なのです。
生き続ける限り、それはいつも少し先にあって、私はそれをずっと追いかけ続けるのでしょう。
間に合うのでしょうか、命が終わるまでに満足することなどあるのでしょうか。
不安になる気持ちを包み込み、楽器は高らかに音を奏でます。
祝祭が、始まるのです。

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