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"私"はどこにいるのか

親密な関係には身体を突き合わせることが必要らしい。
でもこの身体が私であることの邪魔をする。
その表情、鼓動、ふと合う視線が私をどこかに押しのける。

身体を離れれば離れるほど、私であることに近づくような感覚。
私は私のままであなたに身を呈したいのになあ。
あなたが思う私らしさ、私が思う私らしさ。
”私”はどこにあるのか。

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友達と話をするといったらLINEのやりとりや、お茶しながらのおしゃべり。そしてコロナ禍でZOOMで友達と話す機会も増えたこの頃。
なかなか人と会いにくい状況の中で、やっぱり身体を突き合わせて会いたいという思いが募るのとは裏腹に、カフェでおしゃべりしている時よりもLINEやZOOMでやり取りをしている時の方が、自分の思っていることと実際に言葉を使って相手に伝えられているであろう内容のギャップが小さくて、「私」のままで相手と話せているようでコミュニケーションをとる際のストレスは少ないような気がしています。

私が思う相手に抱く親密さ、は身体的なものよりも精神的なものに起因しているんだろうな、と思います。1年くらい会っていなくても、Netflixで見たドラマ、そういえばあの人が前に面白いと言っていたものだったなと思い出して感想を伝えたくなったり、逆に突然「最近読んだこの本、絶対あなたも気に入ると思う!」と突然友達が連絡してきてくれたり。それぞれが生きている別々の世界を持ち寄りたくなるような関係性。

でも、多くの場合親密な関係には身体を突き合わせることも必要とされているような気がして、それが少しばかり憂鬱です。実際、コロナ前にはLINEのやり取りをしてひとしきりやり取りをした後は近いうち会おう、という話になってたびたび遊んでいた友達の多くとは、この頃連絡をすることも少なくなりました。

この個別の例に限って言えば、もともとその人たちとはそんなに合っていなかったのではと考えればそれでいい話なのですが、自分が長年抱いている、世界と十分に関われている実感がわかない部分はこのあたりに関係しているのかも、とここ数日で考えるようになり。

”私が思う相手に抱く親密さ、は身体的なものよりも精神的なものに起因している”というのは、自ら進んで親密さから身体的なものを切り離しているわけではなく、親密さにおいてその二つが両立する方法を未だ知らないからなんだろうなあと。おそらく親密さにおいてその二つが共存する方法をずっと模索していて、それが見つかった時、自分は今よりも世界と十分に関われている実感を得られるのかなあと考えています。

身体を突き合わせると、どうしてもその切迫した感にいっぱいいっぱいになってしまったり、流れるように言葉が出てこない自分が嫌になってしまったりして、私が思う自分らしさとは程遠くなってしまします。でも、はたから私を見る人は、スマホ上のテキストとしての私よりも、目の前でたどたどしく言葉を話す私こそ私として認識しているのかもしれない。

今後、この不一致をなくすような自分になるのか、なくしてくれるような相手と出会うのか、はたまたそのような「関係性」を誰かと一緒に築いていけるのかわかりませんが、この気づきを言葉にせずにはいられませんでした。





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