物語に救われる、という感覚 #「わたしは最悪。」感想

「わたしは最悪。」という映画を鑑賞した。舞台はノルウェー、主人公は30歳になる女性のユリヤである。

医学部に入学した彼女は、大学に入学してもなお知識を詰め込むことばかりが要求される授業に辟易とする。そして、ある時「自分には医学よりも心理学が向いている」と、心理学の道へ転向する。しかし心理学を学び始めたところで、自分にしっくりくる感は得られらない。その後も写真家や作家など、何者かになるべく「ここだ」と思える場所を探し続ける。
この物語は、そんな人生のフェーズにいるユリヤについて、作家として成功している年上の恋人アクセルと同世代の青年アイヴィン、二人それぞれとの関係性を軸に描いている。

26歳になってようやく気が付いた。人生は淡々とした日常を、自分ができる方法でただ続けていくことでしかないのだなあと思う。

大学入学時、活動範囲が広がり親の支配からも逃れたことでなんでもできるようになる気がしていた。そして「〇〇大学に入学する」に代わる、次なる明確な目標がいずれ与えられるのだと思っていた。しかし、授業を受け続けても、サークル活動に勤しんでいても、いつまで経ってもそうしたものが与えられる気配はない。与えられたものはきっちりやる、という生き方しかしてこなかったから、そうではない生き方が分からない。そんなの、自分の心地がいいように、自分が一番いいように生きていけばいいだけなのに。

SNSを眺めていると、自分の処理能力を遥かに超えた視覚情報が入ってくる。写真も文章も、自分の言葉で十分に咀嚼されないまま、漠然としたイメージとしてのみ溜まっていき、焦燥感だけを無駄に煽る。自分を表現する術を持つことは、現代において即効性のある承認欲求の満たし方なようだ。でも、アーティスティックに自分を表現する方法は、義務教育では教えてくれなかった。一度まぐれでバズっても、実が伴っているわけではない。その余韻で生きられるだけ生きた後には、再び自分の外側に照準を合わせ、また次を「当てに」いかないといけない。なんだかとても虚無な作業だ。そもそも「当てに」いくって?その過程で自分の内はどのように変容している?それを続けて何になる?

恋愛は、疲弊する社会活動から逃れさせてくれる場所だ。まだ何も成していない自分でも、少なくともこの人は自分を認めてくれているという実感を得られる。相手が自分に触れることで、自分が相手に触れることで、肉体として自分の生きている実感を得られる。しかし、社会に生きる限り、恋愛も社会から切り離せなすことはできない。魅力的に感じる相手というのは、自分がこの社会でどう生きたいかを如実に反映した人間だ。自分に足りないものを持っている相手は、魅力的ではあるけれど、具に自分の足りなさを突きつけてくる。また、相手が自分を「認めてくれている」といっても、それが自分の認められたい方法でとは限らない。自分と同じような人生のステージにいる相手は居心地がいいけれど、私はまだここに収まりたくないと思ってしまう(自分のことを棚に上げすぎだ、何様なんだ)。結局のところ、私はいまここにいる私を愛せていない。自分はここではないどこかにいるべき人間だと考えているから、目の前のその人を愛せない。

自分は愚者であるようで、すべて経験してみないと気が付けなかった。今まで、すべての選択には意義があると思って生きていくように心がけていたけれど、わたしは最悪だなあと思うこともある。でも、同時に自分の足で日々を歩んできた自負もある。私が、わたしは最悪と言うからいいのであって、あなたは最悪だね、と言われたら腹が立ってしまうだろう。まだそこまでの心の余裕は持てていない。高校までは同じ教室で同じ授業を受け、同じような生活環境で過ごしてきていた友人たちも、それ以降様々な世界に触れる中で今は多様な価値観を持ち、それぞれが今一番大事にしたいものを優先させて生きている。すると悩みも多様で、同じ立場で同じような悩みを共有する、という関わり方をすることは難しくなっているなと感じる。一人では抱えきれないほどの悩みになっているように思うのだけれど、誰とどのように共有すればいいのか分からない。正直、八方塞がりであるような気がしていた。

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このような状況にあった自分にとって、スクリーンの中に生きるユリヤに出会えたことは救いとなった(というか、これは私だと思った。)。そして、今劇場で同じようにこの映画を鑑賞している人の中には、自分と同じような心境を抱いている人がいるのかもしれないということも。映画鑑賞にはこうした効用もあるのか、と思った。こういう物語がある限り、私は生きていけると思った。






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