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「不思議の国 ニッポンの風景 あるべき書類がナイのはなぜ??」

「ホリンジャーボックス」と呼ばれる箱がある。A4サイズの紙が余裕をもって収まるほどの大きさで、段ボール紙よりも固めの紙素材で造られた長方形の箱である。箱の四隅が金属の金具で固定され、型崩れしにくいのが特徴だ。

 つまり、長期保存用の収納ボックスなのだが、とりわけ米国では「It goes to Hollinger. ホリンジャーに突っ込んでおけ」と言うだけで、長期保管しておけ、という意味にも転じる。学校から役所、それこそホワイトハウスに至るまで、あらゆるところで見かけないことはない。

 実際、ワシントンやメリーランドの連邦議会図書館や国立公文書館を訪れれば、百年近く前の史料でも、たちどころにこのホリンジャーボックスとともに目の前に用意される。紙媒体が主体であった時代には、ホリンジャーこそは公文書保管の信頼の礎でもあった(公的な電子メールの収集が進む現在では変化しつつあるが)。

 ホリンジャーにさえ突っ込まれていれば、政府高官から、それこそ大統領の手書きのメモまで、あらゆるものが保存・保管され、火災など物理的な損傷を受けない限り、そのまま保管されるのだ。そして、それを必要とする者が現れる瞬間まで、何百年経とうが、じっと、歴史の評価を待つことになる。

 だが、処変われば、事情は大いに変わる。日本と呼ばれる島では、「つい先日」の文書のひとつでさえ、あったなかったと大騒動である。行政組織の元トップがあったというものを、現政権がなかったという。やりとりそのものが政争の具であるという事情を割り引いても、言えることは、島の公文書管理は、ずっと以前から極めて杜撰極まるということだ。

 米国では紙片に至るまであらゆるものがホリンジャーに突っ込まれ、その後永く保存され続けるのに対して、日本の公文書保存は霞ヶ関から地方公共団体に至るまでその処理が一貫していない。

 いや、そんなことはないはずだ。日本にも北の丸公園に接した公文書館が存在しているではないか、と指摘する向きもあろう。だが、日本のそこは、近代のものが主であり、現代の公文書はなきに等しい。国の公文書を含め、情報開示請求が可能な現在でも、各省庁の公文書は一元的に収集・保管されていないからだ。

 果たして、各省庁の膨大な量に上る文書はどこに保管されているのか―。省庁内の保管室から溢れた文書は、千代田区に隣接する、文京区や新宿区といった各省庁の〝分室〟に保管されることになる。文部科学省であれば、本省から車で十分ほどの距離にある文京区白山二丁目の「資料保管所」などの施設内にうずたかく積まれることとなる。

 こうした施設はその門前に立とうとも、ほとんどの場合は、省庁の名前を冠した表記などはでていない。省庁内から溢れ出た文書は定期的にマイクロバスやバンに積み込まれ、各省庁が借り上げ、また所有するこうした資料保管施設に運び込まれる。

 それ自体は決して秘匿された行為ではなく、役所としては業務上の必要から行っているもので、やましさはない。ただ、保管状態は、場合によっては糾弾されかねないケースもあるだろう。整理されることもなく、それこそ野積み同然に、段ボールに突っ込まれた書類が天井まで積まれているだけ、な場合が少なくないのだ。

 かつてこれを役人に指摘したことがあった。「あんな管理じゃあ、情報開示請求されたって、探すのが大変でしょう」と。

 すると、内閣府に勤める彼はウソかマコトか、こう答えた。

「開示請求すると、該当文書が存在しないって、そう返ってくることがあるでしょ。さんざん待たせた挙句。あれね、決してウソじゃあないんだ。すぐに、文書不存在っていうと、みんな隠してるんじゃないかって怒るんだけど、意図的に隠しているわけじゃなくて、本当は、探しても見つからないことがかなりあるんだよ。だいたい、終わった仕事の文書を省庁内で整理するところまでは手がまわらないのが実態だから」 

 たしかに、室内に〝野積み〟されただけの段ボールの山から、一枚の紙、ひとまとめの書類を探しだすのは、これは物理的に不可能だろう。自分が担当者であっても無理だな、と妙な納得がいく。

 あらゆる公文書が、国立公文書館に集積され、後世の照会に耐えうるように毎日、膨大な量がホリンジャーボックスに整理されていく米国とは天地の差である。

 むろん、そんな米国とて、検索すれば、一発で必要な行政文書がポンと現れるわけではない。ホリンジャーに突っ込まれた文書の評価と位置付けはほとんどなされていないからだ。たとえば、日本の研究者らが関心を寄せる、原爆関連や戦後統治に関するものは、おおまかにしか分類されていない。膨大な資料を一枚一枚、自らの手で点検して捜索しなければいけないのだ。それゆえ、毎年夏の訪れとともに、NHKや新聞紙面で「貴重な戦中・戦後史料」が米国公文書館から見つかったと報じられるわけだ。

 もうひとつ、日本の公文書保管と米国のそれとで決定的に質が異なるのは、「討議の過程が保管されているか否か」である。日本では公文書といえば、総括班長以上の判子が入った「決裁文書」ばかりだが、米国では「政策の決定に至る過程や討議」というプロセスがまるごと残されている。

 さらに言えば、米国が、可能な限りありとあらゆるものをホリンジャーに突っ込んで保管しているのは、研究者やメディアによる歴史の検証や研究のためではない。あくまでも、「公共財」であるからだ。そんな国から眺めれば、あるべき書類が「あるはず」「いやない」というやり取りそのものは、ハリウッド映画を凌ぐ極上のパロディだろう。この島のパロディは世界の先端を走っているのだ。

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