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シリーズ 昭和百景 「吉田茂邸 未公開のまま焼失した 金・銀の間とヤマの系譜」

 上の写真は著者撮影。吉田茂が亡くなった時のものと伝えられる寝具。吉田茂の大磯別邸内にあった寝室(大磯別邸は2009年3月、火災によって消失したが、神奈川県によって建物そのものは2016年に再建された)。背広姿の男性はかつて外務大臣秘書官だった男性で、吉田茂のプライベートルームだった場所へ、筆者とともに入室が許された折のもの。


永く吉田茂邸を守ってきた、吉田茂に仕えた元庭師さん 金の間で 金の間の由来であった天井の写真は下段記事中に

 2009年3月、神奈川県・大磯の吉田茂邸は失火から延焼し、未明に全焼した。

 吉田茂がありし日から大磯の邸宅を守ってきたその人物と出会ったその日の空は、まるで払われたばかりのように、朝から浮かぶ雲ひとつない快晴で、早朝の関東地方では富士山を四方から望むことができた。

 空気が冷え、澄んだ朝方しか富士はその姿を見せることはない。すると、夏よりも冬の富士が東京からは眺めが利くのだ。

 吉田茂の四十回目の命日が明けた2007年10月21日は夏を越え、久々に富士が稜線をくっきりと裾まで覗かせていた。その日の富士はすでに降雪し、関東から見れば、右裾の中腹まで、雪を着流していた。

 東名高速道路を大磯に向けて走っている間も、近づいてくる大きな富士はその姿を見せ続けた。

 大磯の邸宅からも富士山は望め、吉田茂は何よりもその山を愛したのだという。

 遺族が所有する吉田の遺品のなかには、来客用の食器一式が残っている。その皿の一枚一枚にも、富士が青い線で描かれている。

 吉田の命日を弔う例祭に向かうためにハンドルを握りながら、吉田はいい命日を迎えたなと、そんなことを思っていた。

 大磯の部屋から富士がどんな表情を見せるのか、楽しみが増す、そんな朝だった。

 はやる気持ちがアクセルを不要に踏み込ませたのか、吉田邸には、午後1時の例祭開始から三時間も前に到着してしまった。

 吉田邸を訪れるのは、二度目だった。だが一度目は、堅く閉ざされた門が開くことなく、インターフォン越しに、住み込みの管理人だという男性が、「許可がないと入ることはできない」と告げ、そして、顔を合わせることなく「もう、だいぶ荒れてきてしまいまして…」と、小さい嘆きを聞かせたのだった。

 その吉田邸が年に一度、吉田茂の命日に合わせ、吉田と生前親しかった者や縁戚だけが集う例祭の日に限って、その錠を解くのである。

 かつて天皇・皇后がロールスロイスに乗って訪れたこともあるその吉田邸は、今や、写真でしかその風景に触れることはできない。

 その、触ることのできなかった風景のなかについに立つことができるのだから、興奮はおさまらなかった。

 着くと、かつて踵を返して去らざるを得なかった木の扉はすでに目一杯開き、案内の人物が邸内の駐車場へと誘導する。さらには大磯プリンスホテルから派遣されたホテルマンが、例祭に続いて広い芝生の上で行われる立食の会合のために、慌しく準備を進めていた。

 ホテルマンは、竹棒の先に雑巾のようなものを巻きつけ、それで、邸内の歩道のそこここに張った蜘蛛の巣を払っているようだった。蜘蛛はわずか一晩もあれば、大きな巣を張るので、それが日頃の手入れが行き届いていないことを示すわけではなかったが、やはり、まず人が訪れることがないことがわかる。

 そのとき、まだ受付さえいない時間に到着したにも関わらず、立派に葺かれた内門をくぐり、屋敷への階段を上がろうとすると、すでにその日一番目の来客があったことに驚いた。

 年輩だが、体躯からではなく、空気そのものから堂々とした空気を発するその男性を脇目に、黒服のホテルマンだけがせわしなく動く邸内を散歩していると、幾度かその男性と遭遇し、そして、屋敷の中を見に行きましょう、という話になった。

 聞けば、男性はかつてこの吉田邸の応接間で、吉田茂本人の媒酌で挙式を上げてもらったのだという。

 駐車場に滑り込んだとき、すでに一台、大きな黒塗りの車が止まっていたのを思い出した。それはその男性のものだった。

 男性はある外務大臣の名前を挙げ、その名前には覚えがあると応じると、自分はかつてその大臣の秘書官をやっていたのだと、教えた。

 その縁で、男性はかつて幾度も敷居を跨いだのであろう、慣れた作法で靴を脱ぎ揃えると、吉田茂の生前からそこを管理しているという人物を親しげに呼び招き、邸内を見て廻ってもよいか、と許しを求めた。

 男性とその人物とは確かに親しいのだろう。吉田が総理大臣時代に使っていたという官邸に直結した黒電話や、大磯の海が一望できる部屋、さらには、まるまる一艘の舟のかたちをした木枠の風呂などを、細かに案内するのだった。

 私は、書物のなかで知っていたその黒電話を手にとり、「これが、当時のホットラインですか…」などと無邪気に喜んでいた。受話器を取れば、それだけで官邸の電話が鳴ったという説明に間違いはないのだろう。その黒電話には、本来ならばゼロから九までの番号がふられているはずの、ダイヤルはついていない。

 こわごわと、しかし好奇心から、本来ならばダイヤルのある傾斜のついた表面を撫でていると、昭和の時代から吉田邸を守り続けてきたその人物が言った。

「ダイヤルがついていない黒電話のほうが、盗聴がしにくいっていうことでね」

 接してまもなく、私はその人物が、三年前の秋、インターフォン越しに、「もうだいぶ荒れてしまって…」と、顔も見ぬ珍客に嘆いて見せたのと同じ人物であると確信していた。

 彼はいかにも、吉田茂という人間に惚れ込み、吉田茂だけに惚れ込み、そのために吉田茂以外の誰にも愛着を感じない、といった雰囲気で、邸内を案内するのである。

 外務省の関係者であった大柄な男性が、やはりかつて見慣れた邸内で「あれっ、ここにあった机はどうしたの?」「ここに黒張りの椅子があったよね」と、懐かしげに話を振ると、吉田邸の〝守護人〟は、淡々とこう応えた。

「あれは太郎さんが持っていってしまったみたい…」

「それも、今、太郎さんが使っているらしい…」

 吉田茂の孫である麻生太郎が、祖父の形見を譲り受けていったのだという。

〝守護人〟は、感情をあからさまに表情に出すにはすでに老いているのだろうか…、淡々と語るのである。しかし、その淡々と話すにしては、語調が落ちる瞬間があった。

 そんなときの彼は多少、苦渋の表情を浮かべているようにも見える。

 その度、吉田茂に仕え、吉田茂に惚れ込んだ男にとっては、たとえ孫であろうとも、その遺品が大磯の屋敷から持ち出されていくことに抵抗を感じたのであろう、そんな空気を漂わせた。

 終戦からまだ遠くない昭和22年に建てられた大磯の屋敷は、数えられる大きなものだけでも、四度の大きな増改築を繰り返した。

 そのたび、外見は完全な和装のその建物は、横、裏手、脇へと建物が増え、それらをつなぐ渡り廊下があるのだろう、そうした箇所箇所には、背丈ほどもある衝立が置かれ、その立ち入りを拒んでいた。あるいは、勝手に奥へと進もうとする来客の機先を制するように、「立ち入り禁止」の札がさらにその衝立の脇から覗いている場所もある。

 男性は、かつてその守護人が、もともとは吉田邸に出入りする庭師であったのだと、耳元で囁いた。

 それを聞き、二階の窓辺で交わした、守護人の話が納得できた。

 とにかく富士山が好きだったという吉田のことだから、間違いなく部屋のどこからか富士が見える場所があるのだと考え、吉田が立った同じ場所から富士を眺めてみたかった。

 掘りごたつの上に置かれた黒電話を脇に、私は思い余って、守護人に尋ねたのである。

 すると、守護人は告げた。

「あのケヤキの向こうですよ。今はケヤキで見えなくなってしまっています」

 教えられた方向のケヤキの向こうに目を凝らせば、その左の稜線が少しだけ覗いていた。すでに陽は南頂に達し、朝よりもだいぶ霞がかかってきてしまっていたが、その青っぽい線だけは認めることができた。

 男性も「ああ、ほんとだ。うっすらとだけど…写るかな」と言いながら、手に持った薄いデジタルカメラのシャッターを押す。

 そんな男二人の脇に立ち、守護人は続けた。

「あのケヤキも、だから生前はずっと切っていたんですよ。富士山が見えるように。だけど、今はもうあそこまで伸びてしまって」

 大磯からの富士は大きい。その大きな富士を裾野までくっきりと望めたのは、洋室の応接間の暖炉の上に置かれた、小さな二枚の写真で知ることができた。

 しかし今は、山頂付近のほうぼう、その稜線というのには大げさすぎるほどの、輪郭の一部が覗いているに過ぎなかった。

 吉田は富士を望むため、屋敷内のケヤキの木を、低く低く切らせ続けていたのだ。

 ケヤキは高く伸びる。それは巨木ともなり、さらに高さを増しても、枝ぶりはしっかりしている。春から夏にかけて葉を茂らせれば、その存在は高さがあるだけに、何倍にも膨らませる。

 鯉を放った池や芝のある庭園でケヤキを調和させるのは、技術を必要とするはずだった。庭木にしては持て余しすぎる、そのケヤキを切っていたと話したとき、私は守護人にどこか職人の匂いを感じとっていた。

 守護人はかつて一度、吉田邸から逃げ出したことがあったのだという。一万坪というその広大な屋敷の管理は確かに、庭師一人の手には余るだろう。それは庭というよりも、山の管理になる。

 しかし、彼は吉田の強い要請で、再び屋敷に呼び戻され、結局、今に至ることになった。

 ひとしきり屋敷の案内が終わり、玄関脇に置かれた待合のような椅子に腰を下ろしていると、男性がふと思いついたように、再びその守護人を捜そうといい始めた。

 名前を呼びながら、男性に連れられて、衝立の奥へと足を踏み入れると、守護人はどうやら、例祭の開始に合わせて背広に着替えていたのだろう、装いを改めて奥から現れた。

 すると、男性が「あの部屋、どうしても見たいんだ。ちょっとだけ、見せてよ。あの二階の部屋」と、守護人に懇願する。

 二階の部屋とは、先ほど富士を望んだ、黒電話が置かれた海千山千邸と呼ばれた屋敷とは別の場所を指しているようだった。

 すると、よほど古くからの顔なのだろう。哀願とも、悲願とも取れるような男性の要請を受け、守護人はついにその願いを聞き入れたのである。まだ例祭の開始までには十二分に時間の余裕があったことも幸いしたのだろう。あるいは、守護人もまた、男性との久しぶりの再会が嬉しかったのかもしれない。

 男性が秘書官として仕えたのは、特命全権大使をも務めた、当時であれば知らない者のない人物である。庭ですれ違った、まさに袖触れ合う縁で、吉田邸の奥の間への扉が開かれたのである。

 男性がかつて秘書官をしているときだった。

 公用車で吉田邸を訪れると、応接間に吉田が現れ、大臣との話合いに入った。

 なんのきっかけだろうか、別室で待機する男性に、大臣から声がかかった。

「おい、彼女いるんだろう。せっかくだから呼んできなさいよ」

 すでに、結婚を前提にした交際相手がいることを知っていた吉田は秘書官に声をかけ、男性は急遽、女性を大磯まで呼び寄せた。

 そして、吉田茂が媒酌人となり、その場で結婚式を挙げることになったのだ。

 厨房だけでもまるで小さな料亭並みである。五つものガス台が中央に置かれ、料理人のための部屋まで用意されている。

 男性にとっても、吉田邸は生涯、忘れることのできない場所である。そんな事情を知る守護人にとっても、もはや互いに老いゆく季節を迎え、無碍に断るには忍びなかったのだろう。

 どうやら、先ほどまで我々がいた表玄関も、にわかに来客が増え始めたようだ。入り乱れた声を背に、我々は守護人の背に従い、その封印された「間」へと歩み始めた。

 吉田茂邸の階段はすべて、通常の半分以下か、あるいは三分の一ほどの高さしかない。それは、吉田にとって歩きやすいように調整された高さなのだ。

 和室、洋室のそれぞれの応接間に敷かれた長さ十メートルに及ぼうかという一枚ものの絨毯はいずれも日本橋・三越の外商が直々に納入した特製で、その裾には、三越の特注品であることを示す、三越のマークとアルファベットがすでに織り上げのときに模様に紛れて織り込まれていた。

 あるいは、階段の手すりは京都にある実際の橋の欄干を再現し、天井や廊下には、普通のシャンデリアではなく、間接照明が掛かる。さらには終戦直後の建物にして、セントラルヒーティングによる暖房ダクトが邸内を走っている。

 居間の襖には浮き彫りの紋様がつき、それは真珠の粉をまぶして細工したものだった。それが、居間という居間の表裏にまんべんなく施されている。

 さらに小さな収納の引き戸そのものは、表と裏で模様が異なり、雰囲気に合わせて裏表を替えることのできる、リバーシブルになっている。驚かされるのは、その引き戸の小さな取っ手の部分が鉦ではなく、陶器でできていることだった。

 すべて特注品で、微に入り細を穿つほどのこだわりが、そうした見えない場所にまで自らの意思の注入を徹底させた吉田茂という人物を、何よりも示していた。

 あるいは、その吉田の気概のすべてを注ぎこんだ集大成であったのかもしれない。

 男性でさえ在職中にさえ足を踏み入れること叶わず、死後40年目にして初めてその男性の懇願を受け入れられて通されたその部屋は、確かに圧巻だった。

 そこは、「金の間」「銀の間」と呼ばれていた。


かつて金箔で覆われていた金の間の天井 永年の雨漏りでこのような状態となっていた。金の名残りはわずかな天井のくぼみの装飾にだけ残っていた。

 もともとはアイゼンハワー大統領の来日の折、大磯に招くことを予定して、そのための迎賓館として増築されたものである。その部屋は、やはり真後ろを、屋敷よりさらに高い山に守られ、部屋からは、富士山と大磯の浜という、風光明媚な美しい弧を望むことができた。

 応接間には金細工が散りばめられ、金の間とされ、そして、その隣の部屋は寝室として用意され、その天井は銀細工が覆っている。

 真ん中に置かれたクイーンサイズのベッドは、シーツカバーに皺一つない。まるでホテルの一室のようにいつでも来客を迎えられるような状態で、その銀の間に眠っていた。おそらくそのベッドに横たわれば、あたかも夜空に無数の星がまたたくように銀のきらめきに包まれるのであろう。


吉田茂の晩年の寝室となった銀の間の天井 一面、銀色の装飾

「昔はもっと、銀色も、金色も鮮やかでしたけど」

 守護人はそう告げ、そして…。

「ここも雨漏りが酷くて…みんなやられてしまったんですよ。雨で…」

 そう言って、守護は我々のために、その応接間の窓を開け、その痛み具合を説明して見せた。

 銀に比べ、金のほうがその痛みは酷く、言われなければ、すでに天板の自然色と変わらないぐらいにしか見えなかった。

 しかし、寝室の銀色のほうは、部屋の明かりを灯けただけでも、まだらだが、そのまだらがまた、あたかも人工物ではないかのような、自然な発色ときらめきを保っていた。

 そのとき、もしや…という思いが浮かんだ。

 おそらく、そのときを逃せば、もうそれを尋ねられる時期は簡単には巡ってはこないだろう。微妙な問題でもあった。

「吉田茂さんが亡くなられたのは、もしかしてこのベッドですか?」

 守護人は、そこまで通した上で、もう何も隠す必要などはないといった風で、こともなげに答えた。

「ええ、ここですよ」

 吉田茂が没したのは、その銀の間だったのだ。

 私は、朝日新聞の記事を思い出していた。

「では、ご遺体を棺に移されたのがこの部屋ですか?」

 死後、カトリックの洗礼を受けた吉田は、棺の上に白菊で十字架が供えられたと、かつての記事は残していた。

 アイゼンハワー大統領の来日を迎えるためだけに作られたその部屋には、不幸にもその賓客を迎えることはなかった。日程の調整がつかず、アイゼンハワーは大磯を訪れることができなくなったからである。

 以来、そこもまた吉田の個室となり、寝室となった。今でも例祭など、ごく限られた特別のときだけは客人を通す表の屋敷とは別の、裏の棟にそれはある。そこは吉田にとっては完全にプライベートの空間だった。

 守護人によれば、客人がなくどんなに寛いでいるときでも、必ず和装に着替え、身だしなみに気を抜くことはなかった吉田である。出入りを許すことのない、厳然とした私的な空間を〝隠していた〟としても当然であろう。

 寝室であれば、それはなおさらである。

 私は、おそらく主治医やごく限られた親族しか訪れたことのないその寝室に立つことを許された幸運に驚き、そして、もうひとつの謎を守護人に尋ねてみたくなった。

「吉田さんは、晩年はカトリックに帰依していらっしゃったんですか。たしか、葬儀は教会でなさってますよね」

 傍らの男性も、生前の吉田茂がカトリック信者であったことは自分は知らなかった、と言った。

 すると守護人は、このときばかりは露骨に苦しそうな表情を浮かべて、こう言ったのである。守護人が、棺に十字が供えられたその場面を知らないはずはなかった。

「あれも…誰があんなことにしてしまったのか…」

 誰が…、という言葉が含む意味を、私は瞬時に悟った。

「娘の和子さんがカトリックでいらしたから?」

 守護人の言葉に、思わず言葉が突いた。

 私の問いかけに、守護人は口を動かそうとしたようだったが、結局、何も言わずに終わった。

 立場もあろう。いずれにしても、その小さな沈黙で、守護は確かに答えたのだと思った。

 天皇家を崇拝していた吉田茂が、そして敷地内の七賢堂では、神主を招いて弔われる吉田茂がなぜカトリック信者であるのか、やはり諮りかねる部分があった。

 銀の間の枕元には、天皇家の菊の御紋が金刻された台の上に、短刀までが置かれていた。天井には波状の模様で凹凸の細工が施されている。金の御紋に銀の輝きが射すその寝室で、吉田は最期の瞬間を迎えたのである。

 1967年10月20日、吉田は神奈川県大磯町の一万坪に及ぶ土地・屋敷で、89歳の生涯を閉じたが、それからが忙しかった。22日には、宮内庁から松平侍従が訪問し、天皇、皇后からの供物を届けた。

 遺体が安置されているのは、3百坪もの屋敷2階の銀の間である。

 ここで、茂の長男、健一や麻生多賀吉らが見守るなか、遺体は棺に移される。

「棺はきりの白木、中に個人の愛用したステッキとベレー帽、犬のぬいぐるみ、愛読した野村胡堂捕物帳数冊が菊やカーネーションとともに納められた。フタには白菊で飾られた十字架が置かれ、マクラ元には両陛下から贈られた花とお菓子が供えられた。」(10月23日付朝日新聞朝刊)

 棺桶の蓋に、「白菊で飾られた十字架」である。

 だが、吉田がキリスト教を信仰していたことは、身内のもの以外、多くは知らなかったのだ。

 そして、政府が慌しく国葬の日取りを調整するなか、内葬が執り行われ、その棺に納められた主がカトリック信者であったことが広く知られるところとなる。

 23日午前11時、東京・文京区関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂で葬儀ミサが始まった。

 ミサに続いて赦祷式が行われ、献花に移る。

 吉田がどのような経緯でカトリック信者となったのか、詳しい経緯は明らかではない。

 同日付の朝日新聞はこんなエピソードを伝えている。 

「吉田氏は生前カトリック信者になりたいと家族にもらしていたため、死去直後に、カトリック東京大司教区の浜尾文郎神父の司式で洗礼、『ヨゼフ』の名を受けた。」(23日付朝刊)

 東京カテドラルでの葬儀の様子を、その日の夕刊が、十字架が大きく写った写真とともに、さらに詳しく伝えた。

 ともすれば、皇室を尊敬し、天皇・皇后から供物が贈られる吉田が世間に放った最後の大仕掛けを目の当たりにし、多少の興奮もあったかもしれない。

 吉田が晩年まで愛用していた鳩杖は、かつて天皇から贈られたものだった。吉田茂自身の象徴でもあったこの杖と、そしてそれがゆえの天皇家との絆の深さは周知のところだった。

 それにも関わらず、棺桶には「白菊の十字架」で、「死後洗礼」である。吉田をよく知る者こそ、その意外な展開を前にして、その受け止め方に往生してもおかしくはない。

そんな異質な興奮もあったのか、努めて冷静な書き手も、その光景に引きずられているようだ。

「死後カトリックの洗礼を受けた故吉田茂元首相の内装は二十三日午前十一時から東京都文京区関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂で近親者、特別縁故者約千五百人が列席して行われた。

 定刻、高さ六十二メートルの鐘塔から弔いの鐘が鳴ると、パイプオルガンでバッハの『マタイ受難曲』が流れる。長男健一氏、麻生和子さんら親族とともに神奈川県大磯の私邸から聖堂に移されたひつぎは大輪の白菊とユリの花束に包まれた祭壇下に安置され、白柳誠一司教の司式で葬儀ミサがおごそかに進行する。『主よ、永遠の安息を、かれに与え、絶えざる光をかれの上に照らし給え』――。

 佐藤首相をはじめ政、財、官界などの人たちとジョンソン駐日米大使ら諸外国の大公使らが、めい黙して故人をしのぶ。白柳司教は追悼説教で『花を愛し、人を愛し、国を愛してやまなかった吉田さん。洗礼を受けてすぐ神の子となって罪の許しを受け〝天国ドロボウをするんだ〟とユーモアたっぷりにいっていた吉田さん。どうぞ安らかに眠ってください』と述べた。

 このあと『ヨゼフ・ヨシダ・シゲル』の罪に許しをこう赦祷(しゃとう)式が土井辰雄大司教の司式で進められ、正午すぎから告別式に当る献花があり、会葬者全員が白いカーネーションを一本ずつ霊前に捧げた。一般の人約二千人が会葬したのち、遺体は午後二時、渋谷区西原の火葬場へ向った。」

 内葬とは言いながらも、会葬者に向き合うようにして霊前には佐藤栄作夫妻が立ち、国葬並みの参列者の面々である。

 吉田の遺体はその後、31日の国葬後、青山霊園へ運ばれ、十字架の下に埋葬されたのだった。

 確かに、和子の子である麻生太郎も、太郎の弟、麻生泰も洗礼を受けたクリスチャンである。太郎も泰も幼少は、飯塚のカトリック教会の幼稚園に通っていた。

 和子が熱心なカトリック教徒であったとしても、なぜ吉田茂が死後洗礼を受けたのかは謎だった。

 遺書は残っていたのか?と問うと、守護人はさも当然、といった口ぶりでこう言った。

「偉いひとは、遺言なんかは遺さないから…」

 なるほど、と思った。そして、何か符号するものを感じさせる。三女の和子の夫、多賀吉もまた、亡くなる直前に洗礼を受けたと、飯塚カトリック教会の神父は教えていた。

 これは決して偶然ではない…。

 熱心な信者である和子の独断であったのかどうかは、それこそ和子のみが知りえる話であろう。吉田の晩年、妻が先立ってからは、和子がもっぱらその父に寄り添い、生活の面倒を見ていたという、親と子を越えた離れ難い近しさもあったのは事実である。

 しかし守護人は、その洗礼の事実を、吉田を愛してやまないその思い入れがあるからこそ、こう言ったのだ。

「…誰があんなことにしてしまったのか…」

 やはり吉田の生前を知る人物に尋ねれば、「和子さんの影響だろう」という。

 吉田が生前、その周囲に、カトリックの教えに帰依する決意やその共鳴を強く与え、あるいは発散していたことはなかったようだった。

 例祭の間、また別の、とりわけ吉田の当時の側近らを直接に知る人物とともに再び、屋敷に上がったが、その金の間、銀の間への道は固く閉ざされていた。

 表の屋敷の応接間で、こんなことを言った人物がいた。

「吉田茂に汚職がなかったのは、四家のおかげですよ。竹内、麻生、吉田、牧野ね。この四人の支援があったから、吉田は汚職に手を汚さずに済んだんです。すぐそばに河野一郎の別荘があるでしょう。吉田さんはとにかく河野が嫌いだったけど、その河野は金がないから、つねにそうした醜聞にまみれていた。でも、吉田には4人がいたから」

 竹内も麻生も、そして養子に入った吉田家も、いずれも炭鉱や鉱山で商いをし、ヤマで財を成している。吉田の妻、雪子は牧野伸賢の娘で、牧野は大久保利通の子である。大久保家もまた、薩長土肥の門閥華やかな明治政府の鉱区開放後に、その商業権益によって資金の潤った門閥政治のなかで、その恩恵を受けている。

 そもそも、1873年の岩倉遣欧使節団の帰国後に、「殖産興業に関する建議」を国会に提出し、官業の民間への払い下げを推進したのはほかでもない大久保利通だった。ヤマが開放され、安く払い下げられていくのはこの後のことである。大久保は民間払い下げの井戸を掘った人物とさえいえよう。

「4人のおかげですよ」という言葉は、私にはそのまま、「ヤマのお陰ですよ」と置き換えられるようにも聞こえた。

 のち、娘の和子が一冊の本を著す。その『父 吉田茂』のなかに、さりげなく、しかし含蓄の深いこんな逸話が記されていた。和子がこれを記したのは93年、茂が死去してから26年後のことで、和子自身もすでに齢76を数えていた。

「もう時効ですからお話ししてもいいかと思いますが、父の個人的な政治資金は麻生家から注ぎこんでいたものでした。

 父のところにいくお金について、主人は二重帳簿をつけていました。お金をつくるためになにかを売る場合、ないしょで売って、売ったお金が父のほうに流れていることをつきとめられないよう二重帳簿につけます。

 ところが困ったのは、なにかというと父が小切手を使うことでした。イギリスではなんでもかんでも小切手でしたからその習慣が抜けなかったのでしょうが、父が個人的に援助している人たちに差し上げるというようなお金を小切手で切られてはこちらが困ります。

 小切手を切るのには元手がいるわけですが、その元手がどこからきたのかとさかのぼって調べられると、資金源が麻生だということがわかってしまいます。こちらは父の銀行の口座にわからないようにちびちび振り込んでいました。

…ばかをいっているわけではなく、ほんとうに父はお金を持っていなかったのですが、のんきな人でしたからどこからお金が入ってくるかということは気にもとめていなかったのではないかと思います。

『とにかく麻生に任せてあるんだから、そんなこと知らないよ』

 などといっているのですから、じつに結構なご身分です。

 なにぶん父は、吉田家から受け継いだ一財産を若いうちにさっさと使いはたしてしまった人です。」

 竹内家から吉田家に養子に出された茂は、商社を経営していた養父健三の死去とともに、当時の金額でおよそ50万円、現在では20億円近くになんなんとする巨額の資産を相続していた。そのほとんどを晩年までに使い果たし、さらに三女の和子が嫁いだ麻生家が全面的に資金援助をしていたのだった。

 時効とはいえ、二重帳簿とは穏やかでないが、和子によれば、茂が総理大臣就任中に、麻生家の財産は「およそ半分ぐらいになったのではないか」という。

 吉田茂の実父もまた炭鉱や鉱山の経営で財を成し、晩年は娘和子が嫁いだ筑豊の炭鉱王の財で政治活動を支えられた。

 炭鉱経営という汗の上に竹内家も麻生家もあり、そのうえに吉田茂が生まれ、政治家として生きながらえたのだとすれば、ヤマあっての吉田茂がいたこともまた、偶然を超えた歴史の必然であったように見える。

 そして、そのヤマが育んだ、伏流水にしては太すぎる水脈を地下深くに隠し、キリスト教という文化に、人生最期の瞬間に帰依し、〝天国ドロボウをするんだ〟と言って見せた吉田のユーモアは、どこかヤマの声と重なって聞こえてくるのだった。

 それは、ヤマの金を蕩尽して戦後政治を差配して世を去った、吉田茂によるヤマへの最後の贖いのようにも、響いてくる。

 その吉田茂が没したのが、燦燦ときらめく銀燭の部屋であったときき、私は、そのヤマとの因縁の深さを一層、確信し、そしてそのヤマが導き、どこまでも延びていく縁の長さに困惑さえ覚え、汗ばむ陽気となった秋晴れの空を仰いだのだった。


 終戦後まもない一九四九年には、飯塚以上に炭鉱で栄えた直方にも教会が創立される。飯塚教会の創立者でもあった、ヨセフ・ドレル神父の手によるものだった。さらに五五年には田川教会が設置され、飯塚、直方、田川と筑豊を代表する炭鉱マチに教会が整備され、信者を正式に迎えることになった。

 興味深いのは、筑豊御三家と呼ばれた飯塚の炭鉱王、麻生家の多賀吉が、教会のために五百坪もの土地を提供している点である。多賀吉が妻として迎えた吉田和子は、熱心なカトリック信者として知られるが、その和子と結婚したのは一九三八年のことである。

 多賀吉と和子の馴れ初めはその前年三七年のことだったから、熱心なカトリック信者だった妻の求めから土地の寄進を決めたとは考えられない。

 そもそも和子がカトリックであった縁は、母親の雪子もまた洗礼を受けたクリスチャンであったことの影響が大きい。雪子は旧伯爵の牧野伸顕の娘で、牧野は大久保利通の子である。

 捉え方を返せば、大久保利通は和子の曾祖父に当る。

 妻の雪子がクリスチャンであったためか、吉田茂の長男、健一はやはりカトリック系の暁星に通い、和子もまた聖心女学院に通うことになった。

 多賀吉と和子の結婚式は、おそらくそうした吉田家側の事情を全面的に受け容れたのだろう、東京・神田の天主教会で行われた。

 和子の夫となった多賀吉が、亡くなる直前に洗礼を受けたという堤神父の記憶は興味深い。やはり、和子はその父親である吉田茂にも強く影響をもたらし、その吉田もまた、亡くなる直前に洗礼を受けた、その最期は重なってくる。

 守護人が口をつぐんだ「誰があんなことを…」というその誰がという言葉の先にはその姿がくっきりと浮かんでいたのであろう。

 ところで、麻生家に三女の和子を嫁がせた吉田茂のその心持ちはわからなくはない。

 吉田茂もまた、その祖父に遡って、炭鉱や鉱山といったヤマの血を引くものであったからだ。もちろんそれは、坑夫として坑内で働いたという、リンカーンのログキャビン伝説ばりの成功物語とは程遠かったが、明らかに、ヤマの系譜の上に、ひとつの政治王朝が出来上がったのだ。

 麻生―吉田の政治王朝にあえて異質さを求めるとすれば、終戦、あるいは石炭時代の終焉とともにヤマ成金たちの多くが没落していったのに対し、見事にその脈を現在この瞬間までつないでいるという点にあろう。

 いかに〝地方財閥〟とはいえ、現在、麻生家が九州を中心にグループ企業だけで60余社を数え、政界への有力代議士を送り出しているその系譜は、間違いなくこう確信させた。

 立身出世構造とは別の次元の、ヤマ特有の一体感、連帯感、共同性が、中央へひとを送り出す原動力となり、人を育てた時代があったのだ、と。そして、近代化にメカニズムと呼びうるものを認めるとすれば、それは、その意味で鋭く中央集権的なものであり、そもそもにおいては、地方分権的、あるいはそれは主権的な選択の結果そのものだったのかもしれない、とも。

 ムラ社会の変容と、それと並走した日本の近代化というヤマの歴史のうえに、吉田―麻生という現存するイエが育まれていると見れば、示唆に深い。それは実に希少な、現実的なヤマの姿そのもの…。あるいは、山師の甦りとさえ呼べるのかもしれない。

 それにしても、数あるヤマ成金のなかで、なぜ吉田―麻生だけが命脈を保つことができたのか―。 

〝裏日本〟北陸に、石川県・小松市がある。そこに、今となっては忘れられたヤマがある。

 日本海から内陸へ進み、山に入ったところにある遊泉寺銅山を今、訪れる者は少ない。

 銅山そのものは取り立てて珍しいものではないが、県内の者にとっても、遊泉寺銅山よりも、遊泉寺銅山から山沿いに福井へと近い尾小屋鉱山のほうが知られた存在となっている。

 その尾小屋は、かつて加賀藩の財政を支える御用山であったことから、そこには豊富な資料が集められた資料館が残されている。それに比べ、遊泉寺銅山は山中、所々に真新しく整備された看板が淋しい。

 明治以降、その遊泉山銅山の採掘権を獲得したのが吉田茂の実父、竹内綱であり、後にその経営権を得て事業を最盛期に運んだのが吉田の兄であり、竹内家の長男だった竹内明太郎となる。

 地元、小松市や小松製作所によって、その人気薄い場所に、物々しく立てられた由来碑によれば、その銅山の由来は次のようなものだった。

「…経営は当時の最先端をゆくもので明治四十年には鉱山から小松あで軽便鉄道を敷設し又、採掘を人力より機械化するために、神子清水発電所を建設し、精錬方法も溶鉱炉に、さらに電気分銅所を設置して、その規模を拡大した。大正五年頃には、純銅を生産する鉱山として、従業員も一、六〇〇人を数え、家族も合わせて五、〇〇〇人が住み、病院、郵便局、小学校、衣料や雑貨屋、魚屋、料理屋、質屋等軒をならべた鉱山町を現出した。」

 この遊泉寺銅山に向かう道は、初めて訪れるものには極めて分かりにくい。それはムラから外れた、その外側にあるのが理由かもしれなかった。

 田んぼの畦を抜け、田が終わり、山に入る、その山の襞と襞との間のわずかな隙間を掻き分けるようにして、鉱山のマチが広がっていたのだ。驚くのは、明治大正年間になお、病院や学校まで含めたひとつのマチが、農村のムラの外に展開していたその様だった。

「…その後鉱脈の不足や第一次世界大戦後の布教などのため、遊泉寺銅山は大正九年閉山のやむなきに至った。」(同所由来碑)

 このヤマの歴史は、竹内家が経営に乗り出すよりも古い。江戸時代も後期に入る、一八〇七年にその礎を持つ。

 明治の鉱区開放で、やはり九州、佐賀の芳谷炭鉱や長崎の高島炭鉱でヤマを経営してきた竹内家にしても、土地に縁のない日本海側の石川県のヤマをどのようにして得たのかについては、地元の研究者の間でも諸説入り乱れ、定説はない。

 もちろん、佐賀や長崎でさえ、土佐の郷士出身である竹内家と直接の縁はない。いずれも単純に実業上の理由からだったと見られなくもない。しかし、芳谷や高島の各炭鉱は、やはり土佐出身の後藤象二郎が、どちらも明治政府とのツテによる情報の優越性を以って、鉱区獲得を有利に進めた気配が強い。

 薩長土肥の門閥政府そのものだった明治政府が既得権益として放出する鉱区開放で、それを払いうける側の意思が単なる偶然と考えるほうに無理がある。

 かつて小松商業高校の校長を務め、石川県立尾小屋鉱山資料館の館長を任せられる清丸亮一は、一枚の紙を見せ、「これはあくまでも私の説ですが…」と丁寧に前置きした上で、こんな話を教えてくれた。

「実は、石川県の初代知事だった岩村高俊と竹内家は姻戚関係にあるんです。そんなこともあって、石川県の銅山の情報が伝わったのではないかと思います」

 清丸が示したのは、竹内家とこの岩村家との関係を示す家系図であった。

 初代石川県知事の岩村高俊の父、英俊の姉は、竹内梅仙と結婚し、そして綱が生まれる。綱は吉田茂の父である。やはり土佐出身の岩村家と竹内家とは極めて近い関係にあった。 

 その岩村家もまた、門閥を背景にした立身出世を遂げる。高俊は石川県知事のほかに、福岡や広島の知事、さらには貴族院議員にまで上り詰める。その長兄、敏俊は、初代北海道長官、農商務大臣、そしてやはり貴族院議員となる。次兄の林有造は、通信大臣、農商務大臣、そして高知県知事などを務めることになる。有造の子、林譲治は、第二次吉田茂内閣で副総理の地位に就き、衆議院議長を任せられる。さらに言えば、譲治の子、道は岩村家、吉田家ともに同郷である宿毛の市長となった。

 もちろん、能力あっての立身出世が建て前だが、一つの家系を手繰ってみても、明治という時代そのものが、いかにその能力を発揮するために門閥・閨閥をも必要としたかが透けてみえる。そして、閨閥の優越を崇めようとするかのごとき、選民思想さえ民衆の側にまったくないとは言い切れなかった。大衆や社会のそうした広範囲な土壌があってこそ、そうした門閥政治は成り立つとも言える。

 石川県知事を出した高村家と竹内家が縁戚関係にあったという、清丸の重大な指摘を措いて、さらに「日本海」と竹内家との縁を探れば、もうひとつの奇縁に辿り着く。

 吉田茂の父、綱は一時期、新潟の牢獄に囚われたことがあった。

 いわゆる「高知の大獄」の首謀者の一人とみなされたのだ。

 高知の大獄は、薩長土肥で構成されていた明治政府の門閥間で政争が発生し、下野する形となった土佐派と佐賀派が、政府側として残った薩長に政権奪取を仕掛け、そして捕らえられた事件である。

 その直前、竹内綱は、勤めていた大蔵省を辞職していた。

 こうした流れのなかで、江藤新平は、佐賀県庁を占領する暴動事件を起こす。江藤は結局、高知に逃亡中に捕まり、死刑となる。そして、その高知では、県知事を務めた林有造や板垣退助が立志社としてまとまり、武力による明治政府打倒を画策していたとされていた。

 ここで、林の不穏な計画に、綱が絡むことになる。

 林らは立志社を中心に土佐から武力蜂起を目論み、実際に武器の確保に走った。

「…これを実行に移すためには、何よりも武器、特に小銃が必要である。…岡本健三郎を訪ねて、ドイツ製のシュナイダー銃三千挺を購入するよう依頼した。岡本は竹内綱の協力を求め、竹内の奔走によってジャーディン・マジソン商会を通じ八百挺の小銃が確保されたが、三千挺の方は資金不足のためのびのびになっているうちに、薩軍は熊本城の攻略に失敗して、敗勢顕著となった。」(『評伝 吉田茂』猪木正道)

 さらなる劣勢を挽回しようと画策に走ったのか、1877年8月8日、林有造はポルトガル人と会うために、竹内綱の屋敷に向かおうとしたところを逮捕される。

 そして、林の逮捕の翌年、四月に綱も逮捕となった。すでに大蔵省を辞職していたこの時期、竹内は長崎での炭鉱経営に専念していた。

 竹内が長崎・高島の高島炭鉱を後藤象二郎と経営していたのは、1874年から1881年までの7年間である。逮捕された78年はまさに事業を軌道に乗せようと、東奔西走している最中のことだった。

 綱はその長崎で逮捕され、東京に移送される。

 そして、取調べられた。

「『お前は、土佐で挙兵を企てるため、岡本健三郎の依頼により、英一番(ジャーディン・マジソン商会)から小銃八百挺買入れのあっせんをしたであろう。』

『自分は岡本から英一番に小銃の有無を問い合せるよう依頼されたことは事実だが、西南騒乱の今日、小銃買入れ等のことは危険だと答えて断った。もし自分の言葉に疑問があるならば、英一番に聞いて頂きたい。』」(『竹内綱自叙伝 明治文化全集』)

 そうしたやり取りの末に、綱は「禁獄一年」を申し渡され、1878年9月11日、新潟県寄居町の監獄に収監されることになった。 

 綱にとっては五男となる茂が生まれたのは、綱が収監されてからわずか11日後の同年22日である。

 長崎で逮捕された綱は、すでに茂を身篭っていた妻とともに神戸経由で東京に護送される。

それを前後し、捕らえられた綱を助けるために、綱の妻の世話をしたのが、茂の養父となる吉田健三だった。

 政治学者の猪木正道は、そうした縁もあり、茂は吉田健三の東京の別邸で産み落とされたと、推測している。

 ところで、竹内綱と吉田健三との交流について、猪木は次のように記している。やはり石炭が縁を結んでいたのだ。

「竹内綱と吉田健三との関係は、吉田健三が明治五年(一八七二)に東京日日新聞の創刊に関係した頃からはじまったようだ。綱が高島炭鉱の経営に当って、ジャーディン・マジソン商会と提携した結果、二人の関係は一段と親密になった。吉田健三は明治の初年にジャーディン・マジソンの番頭を務め、退職後もこの商会の首脳ときわめて親しかったからである。」(『評伝 吉田茂』)

 当時、マジソン商会は横浜に日本での本拠を構え、その業態は今日の商社業務に近いものだった。林が竹内を通じて銃の購入を画策したのも、マジソン商会へのツテを頼んでのものだった。マジソン商会は、日本政府に売却する目的で英国製の軍艦までを調達していた有力商社である。

 竹内と吉田が最初に縁を結んだ東京日日新聞は、現在の毎日新聞のはるか前身に当る。その創刊こそは、明治政府から竹内ら土肥出身者が締め出されたこととも無縁ではなかった。

 下野した人間にとって必要なのは言論であり、そこに互いの思惑が結びついたのだろう。

綱が遊泉寺の経営権を手に入れたのは1902年であり、それに先立って、綱は新潟県に収監されていた苦い経験を持っていたのだ。

 収監されたとはいえ、それは決して今日のような鉄策と高い塀に囲まれたものではなく、幽閉に近い状況だった。綱は、監獄内にあった10畳と6畳との二間ある一軒屋で過ごすことになる。

 綱はこの時間を利用し、英文の図書を含めて読書に勤しむ。

 捕らえられる直前まで、実業家としても辣腕を振るい、自ら長崎に赴いて炭鉱経営にその情熱を滾らせていた綱であれば、おそらく獄中にあっても、書物だけでなく、その地の利を活かした情報収集を試みていても違和感はない。

 綱は入獄の時点で、すでに長崎の高島炭鉱だけでなく、現在、軍艦島として炭鉱マチの代名詞のようにその名を残す、端島での炭鉱経営も行っていた。

 すでに採掘の歴史がある炭鉱の経営権を買い取るという、それはあくまでも「開発」ではなく、「経営」なのだ。当時、鉱区の売買はときにある種の投機性を孕み、それは、政治力を背景にした財力のある者に許された、官業払下げを受けることのできる、いわば「天下った」作業という側面も強かった。

 金属鉱山にしろ炭鉱にしろ、明治政府による鉱区開放によって、それは、株の売買による現代のマネーゲームと似てさえいた。ときにその有力鉱区の転売と経営は、多大な利鞘を生み、一種のファンドビジネスに近い状況をも生んだ。

 明治政府の鉱区開放によって市場化されたヤマの売買は、それこそ現在のヒルズ族さながらに、有力資産家によって経営権売買そのものをビジネスに変えたのだった。

 そのなかで、綱は経営権を得た場所で、あくまでも実業を営もうと試みたのである。

 だが、その目は九州という、当時でいえば鉱山経営の中心地に向けられていた。鉱山があったとはいえ、まだまだ裏日本という辺境の空気が色濃かった日本海側や、さらには北海道まで、綱はいまだその触手は伸ばしてはいなかった。

 新潟監獄から釈放後の綱は、93年にはついに北海道・大夕張炭鉱での採掘を開始し、綱は「開発」に乗り出すことになる。その九年後、竹内鉱業㈱は、遊泉寺銅山の経営権を取得する。

 ヤマの開発は、おそらく経営よりも難しい。

 それは遊泉寺銅山によって形作られた、山中のマチが、その意味のすべてを物語っていた。

 石炭にしろ鉱物にしろ、採掘されたものは、そこから流通に乗らなければ財を生まない。マチを作り、それを鉄道や道路でムラにつなげ、港のあるウラから船に乗せ、搬出して初めて商品としての価値を持つ。

 そのために明治以降のヤマにはまず鉄道を通し、電気を通すというインフラ整備そのものが求められた。それは裏を返せば、まるまるひとつの自己完結型の都市開発が必要なことを意味する。

 しかも、ヤマというひとつの自己完結型の社会でそれを実現しなければならない。

 さらに、それこそ終戦後もなお、ヤマで働く人々に対するムラの目は厳しく続いている。閉ざされた社会でありながら、そこにムラを突き抜けた流通という一本の生命線を通し、さらにその内側に自給自足の要請を満たすマチを作らなければ、鉱山にしろ、炭鉱にしろ、ヤマは成立しなかった。

 遊泉寺銅山の実際の経営に当ったのは綱の長男である竹内明太郎だが、明太郎の手腕で、実に5千人もの人々が山襞の窪地から奥へと伸びる、長く、そして巨大な集落を作り、そこに栄えた。

 その閉ざされたマチには、真ん中に一本の細い川が流れていた。それは川と呼ぶにはあまりに細く、せせらぎにも小川にも見えた。土地を削り、もっとも低いところを流れるのが川であれば、そこはまさに、峰々のうちにもっとも低く窪み、そして奥にあったことの、何よりの証左であった。

産業の勃興が偶然であっても、その定着には当然の理由があるように、企業の発祥もまた偶然では割り切れない十二分な意味を孕んでいる。

 炭鉱や鉱山で必要となる機械を開発するなかで、竹内鉱業の機械部門だった唐津鐵工所と、小松鉄工所が独立する。そして小松鉄工所は、重機分野で世界的なシェアを獲得した小松製作所の前身となる。1917年1月のことだった。

 竹内綱の長男、明太郎は当初、工作機械や冶金製鋼の技術を吸収するために、有望な技術者を何人も、欧米の大学や専門企業に派遣した。

 ちなみに、小松製作所の創設から遡ること3年前、明太郎は総選挙で初当選している。55歳で、経営者にして代議士となったのだった。

 そのさらに2年前には、竹内家の故郷である高知で、私立の工業学校を創設している。現在の高知工業高校である。石川県小松市で、遊泉寺銅山の経営に携わってもいた縁から、今、この高知工業高校と小松工業高校は姉妹校交流も行われている。

 なお、明太郎は高知工業高校の創設計画に前後して早稲田大学理工学部の創設計画にも参加し、資金面だけでなく、教員など人材供給でも大きく貢献したとして、後に早稲田から感謝状を贈られる。

 当時、早稲田大学理工学部は、機械、電気、採鉱、建築の四つの学科で構成されていた。採鉱学科があったことは、いかにも時代状況を反映していた。

 現在、国公私立を問わず、日本で鉱山学科や採鉱学科が残っている大学はない。鉱山が多く、戦後まで多くの人材を供給した秋田大学や東北大学、さらには東京大学でも、今日、すでに鉱山学科はその名を留めることなく姿を消した。

 細い川のはるか先、原生林のごとく高く生い茂る木々の合間に道は消えていた。ウグイスの鳴声が左右から響く。かつて巨大な鉱山都市として栄えた名残は、小路の脇に不自然に隆起して生える大きなシダの根を払えば、至るところで露になった。古代遺跡さながらの、隙間なく組まれた石の土台が、そこにどれほど堅牢な建物があったのかを見えずして映していた。そして見事に人の気配を失った、閉ざされた町の閉ざされた記憶を辿る唯一の糸であるかのように、小さな流れだけがさらなる時間の奥へと、私を導いていた。

第二幕 

 五木寛之のベストセラー小説『四季・奈津子』が映画化された1980年9月、40歳の麻生太郎は衆議院に初当選してから間もなく1年を迎えようとしていた。

 映画のなかで、奈津子を演じた鳥丸せつこがボタ山の頂に立ったとき、そこはまだ、煤けた雨ざらしの黒い石が、筑豊の空に、左右等しく稜線を広げていた。

 麻生太郎が自民党幹事長に就任した2007年、筑豊の空あちこちに聳えていた、そんなボタ山のほとんどはブルドーザーで均され、造成された住宅団地へと姿を変えた。わずかに残るいくつかのボタ山は今、それがボタであるとは指摘されるまでまったく分からないほどに木々が盛り、緑の下草に覆われている。そのあばたさながらの、決して美しいとは呼べなかったボタの痕跡が風雪の彼方に消えようかという今年、麻生太郎がいよいよ次の総理候補を目指す地位に就いたのは偶然とは思えなかった。

 日本の鉄鋼産業を下支えた石炭採掘で名を馳せた筑豊・飯塚こそが麻生太郎のルーツであり、麻生家が一世紀以上の時間をかけて育んだ礎の地である。吉田茂を祖父に持ち、鈴木善幸の娘を娶り、宮家・三笠宮家と縁戚関係を持つ閨閥の華麗さは、現在の総理、安倍晋三を凌駕しているといっても過言ではない。

 安倍が自らより、およそ30歳近くも年長の麻生に親近感を嗅ぎ取るとすれば、それは互いの祖父に総理大臣経験者を持つという、その成熟した家系にこそあるのかもしれない。

 もちろんそこには、かつて互いの祖父、岸信介と吉田茂が自由党と民主党との合流において凄まじい権力闘争を展開し、犬猿の仲であったことの生々しさはすっかり影を潜めている。時間が強調するのは、「保守合同」という大義の美しさだけであった。

 だが、麻生太郎と安倍晋三の系譜を対比させたときに顕著なのは、やはり麻生家はあくまでも実業に拠って立った家系である点だ。

 明治政府によって鉱区が設定され、石炭の採掘が旧藩単位での藩業から国策に移されたのち、筑豊には、住友、三井、三菱、明治平山、日鐵といった明治政府と強力な結束を持った大きな資本が流入してくる。それまで黒田藩の藩政のもとで裁量の赴くままに石炭採掘をしていた麻生家は、こうした中央資本の流入にともなって生き残りを図る。

「ようは、資本の力では三井や三菱にとても対抗できなかったわけだ。麻生は筑豊御三家だといっても、所詮は筑豊の御三家だから。それも、いくら石炭で成り上がったとはいえ、結局は庄屋上がりの力で、石炭は結局、資本力が決定的にものをいうから。石炭産業は大規模に掘れば掘るだけ商売にはなるけれども、そのための人件費や設備投資はもちろん、たいへんな投資負担になる。しかも、それが決して百中百発ではいかない。掘り進めている石炭の脈が途中で途切れてしまうこともあるし、その埋蔵量はまさに掘ってみるまではわからない、まあ、バクチ商売なんだよ。バクチなんだ、石炭というのは結局。だから、そのためにも投資の額はどうしても嵩んでくる。そこで、明治以降、筑豊に財閥が入ってくると、自分たちが生き残るために、麻生家は、より良質な鉱区や脈のよさそうな場所を住友や三井に売っていったわけだ」(元九州通産局幹部)

 たしかに、石炭が斜陽化する昭和30年代のだいぶ以前から、筑豊御三家はすっかりその家勢を失い、筑豊はすでに中央財閥による「大ヤマ」がその鉱区の多くを仕切っていた。明治以降、麻生家もまた、「大ヤマ」から、「小ヤマ」とはいかないないものの、「決して、大ヤマとは呼ばれない規模に墜ちた」(麻生鉱業の元従業員)のだった。

 後に、全盛を誇る住友忠隈炭鉱も、三井山野炭鉱も、もともとは麻生家から買い上げられたものである。埋蔵量の豊富さを先読みし、その鉱区の売買は強い投機性を孕む、まさに「バクチ商売」とは決して大げさな物言いとは言えなかった。

 麻生家が吉田茂の三女、和子を迎えるのも、ちょうどこうして明治以来の地元資本の天下がピークを迎える第二次大戦の前である。

 吉田茂の愛娘の嫁入りは、炭鉱成金の露骨な閨閥作りとして、当然、筑豊の人びとの口端をにぎわせた。

「麻生さんちの正門の脇には井戸がありまして、そこの井戸でまず家のひとがおっきな樽に水をいーっぱい汲むんです。それをリヤカーに乗せて待っていると、屋敷のなかから和子さんが真っ白な馬にまたがって出て来られました。頭には羽飾りがついた綺麗な帽子を被ってました。それで馬に乗った和子さんが出てくると、その前を樽を積んだリヤカーが先導して、まだ舗装もされていない砂利と土だけの道にひしゃくでバシャ―、バシャ―と水を撒くんです」(飯塚市在住の地元古老)

白馬にまたがった和子さんを目撃した様子を教える地元の男性

 今もまだその井戸は、飯塚市にある麻生家の正門に向かって右手に残っている。

「私も偶然に見たことがあって、驚きましたね。いったい何をしているのかと思ったら、ようは土ぼこりがたたないように、和子さんの馬が通る前で水を撒いているんです。先払いというか、露払いというか。その後ろを、スッと背を伸ばした和子さんが見たこともない綺麗な帽子をかぶって、真っ白な馬に乗って散歩するわけです。それを見て、『ひゃー、やっぱり吉田茂の娘さんなんだなあー』って、やっぱり思いましたよね。で、私らはそれを横目に見ながら、ヘルメット被って、石炭掘りに毎朝、地下に入っていくわけです」(麻生鉱業の元幹部)

 当時、石炭を採掘する、「ヤマ」に近い場所には、いたるところに炭鉱住宅と呼ばれる長屋が、それこそ巨大な住宅団地さながらに整然と軒を連ねていた。炭鉱で働く人びとは、みなこの炭鉱住宅を無償で提供され、さらに電気代も水道代も無料だった。戦前、戦中、戦後の貧しい時期は、長屋といってもこの炭鉱住宅は決して粗末なものではなく、むしろ炭鉱で働けば、住むところに困らないだけでなく、賃金も高く、ほかの業種に比べれば、圧倒的に有利な生活環境にあった。

 ただ、その麻生鉱業に、労働力が決定的に不足する時期が訪れる。戦中のことである。麻生鉱業の炭鉱住宅には、日本人と朝鮮人たちが同じ軒の下で暮らしていた。麻生鉱業にも、朝鮮から出稼ぎに来た労働者が数多く坑内へともぐって行ったのである。

 麻生鉱業で働いた経験のある元抗夫が、懐かしそうに思い出を語った。

「戦中は若い日本人はみんな徴兵で戦地に行っちゃってたから、坑内に入っているのはみんな朝鮮から来た人達ばかりだったです。私なんかは、戦争に行くのにもまだ若すぎたから、地元に残ってたんですけど、どれくらいいたでしょうかね、何十人と並んで、点呼をしてましてね。それが朝鮮から来た人なんですね。それで、指揮を執っている日本人が『みぎ向けーみぎっ』って大きな声を出すと、日本語がわからない人がいたんでしょう。みんな、右を向いたり左を向いたり、てんでバラバラでした。それで、互いにどっちを向いていいのかわからないもんだから、混乱しちゃって。横のひとをみて、今度は右向いてる人まで横の人が左を向いていると左向いちゃって、左向いてた人は右向いちゃったりしてね。ほんとに、てんでばらばらでね。酷いもんでしたよ。朝鮮から来ると、まずはそんなところから初めてましたね」

 もちろん、この時期、朝鮮からの労働者を受け容れていたのは麻生鉱業に限らない。九州から北海道までそれは日本列島至るところでの光景だった。その多くが現在まで数多くの民事訴訟を含めた紛争の原因ともなっているのも事実だった。

 元抗夫が続けた。

「麻生鉱業もね、戦中は朝鮮の人達で事業が持ってたようなもんですよ。それで戦後になって、私ら日本人が坑内にどんどん入り始めたんです。私も炭鉱住宅の長屋に住んでましたけど、隣のうちが朝鮮の家族でしたよ。そこのお母さんが夕方になると、毛の生えた動物を持ってきてね、頭におっきなバケツを載せたまんま、長屋と長屋の間の路上で、朝鮮語でワーッとなんか呼びかけるんです。すると、あたりの部屋から朝鮮のひとたちがみんな出てきて、そのお母さんちの土間に集まってきて、動物を解体するのを眺めてましてね。解体して、腸とかのホルモンでしょうね、それをどんどんバケツのなかに放り込んでいってね。そしたら、うちの母親から、そんなの見ちゃ駄目っ、なんてよく怒られましたよ。でも、朝鮮の人達もみんな頭が良くてね。僕の同級生でもいたけれど、どうしちゃったのかな…戦争が終わったら、みんな朝鮮に帰っていきましたよ。でも、よく言われるように日本人といつも敵対していた、なんてことはなかった。みんな長屋で仲良く暮らしてました」


 筑豊の炭鉱では、朝鮮人に加え、白人兵の捕虜も働いていた。

 すでに90歳近い年齢を押して、今もまだ筑豊に住む老人は、最初は口ごもっていたが、まもなく3時間が経とうかという頃、前触れなく、唐突に語りだした。

「白人もね、いましたよ。私は労務課で、戦中には白人の捕虜を管理する役目でした。でも、痛めつけたりとか、そんなことはしませんでした。労務課というのも、結局は働いてもらわないといけないわけですから、そんな乱暴ばかりしていたら働くほうも嫌気が差して仕事にならなくなってしまいます。だから、片言の英語で、よく話はしました。それで、聞けば、こっちは決戦用の石炭増産だとかやってる最中に、アメリカでは一家に自動車が3台も4台もあるとかいうわけです。そんな話を聞くと、なんだかこれは日本は勝てないかもしれないな、と思いました。生活の違いに驚かされました」

 元労務課に務めていたというその老人は、白人を監督していたことが今なお罪深い行為であるかのように思い、60年以上が過ぎた今の瞬間もまだ、警戒心を捨てきれないようだった。土間に腰掛け、じっと組んだ手から脂気はすっかり抜け落ち、無精ひげと窪んだ眼窩から放たれる鋭い視線は、決して私のそれと絡むことはなかった。

「それで、終戦だっていうことになったら、その瞬間にみんな捕虜が解放されたから、町のなかに、白人がわあーって繰り出してきて。私は仕返しをされるんじゃないかと思って怖くなって部屋にいたら、やっぱりうちにまで来ました。別に乱暴をされるとかいうことではありませんでした。私の場合は仲良くしていたこともあったのでしょう。でも、訪ねてきた白人が、お土産に日本の刀が欲しいから、刀をくれないか、というわけです。私も戦中は中国に出征してましたから、そのときに持ち帰ってきたサーベルを床の下に隠してあったんです。でも、渡しませんでしたけど。とにかく、終戦と同時に立場が変わってしまって怖かった。とっても怖かったです」

 終戦と同時に、白人の捕虜に向け、上空からは連合軍による、パラシュートがついた救援物資がいくつも投下された。事情の分からぬ筑豊の子供達は、みな掛け声をあげてこの物資に駆け寄り、そして缶詰の詰まった箱に触っては、大人たちから叱られたという。

 終戦とともに、坑内での労働から解放された白人は、一斉に町へと繰り出し、そして我先にと、筑豊を脱出していった。

 連れてこられた白人の捕虜が、現在、博多と飯塚をつなぐ福北ゆたか線の線路脇で整列していた様を、覚えている老人もいた。

「捕虜なんですけどね、捕虜でも向こうのほうがずっといいものを着ていたのでビックリしました。こっちは裸同然のみすぼらしい格好でしてね、それに子供だったから。何十人も線路の脇にいて、こっちを見て、みんな笑ってるんですよ。あれはみんな、飯塚に連れてこられた捕虜だったんですねえ」

 残念ながら、白人捕虜の就労問題や朝鮮人に対する補償問題を巡り、麻生太郎が社長を務め、現在は太郎の弟が率いる麻生グループに対する抗議は今なお止まない。戦後60年を経て、根深い怨讐を払拭しきれない背景には、麻生グループ側による、誤解されかねない抵抗もあるようだ。

 筑豊地方には、直方、田川、飯塚と、炭鉱の栄えた町に大規模な石炭資料館がある。なかでも、麻生家のまさに膝元である、飯塚の歴史資料館において、この朝鮮人の労働徴用に関する展示は一切ない。

 飯塚市の歴史資料館は、麻生グループの元顧問である深町純亮がかつて館長を務め、そしてその深町が06年暮れ、朝鮮人の強制連行を〝虚構〟とする本を監修している。鎮まりつつある民族感情を自ずから逆なでるかのような姿勢が、邂逅の瞬間をなおも遠ざけているようにも見える。

 飯塚駅からわずかの距離に、不気味な〝近代化遺産〟が残っている。それは深い森へと誘う山の麓に沿って、先の見えない先へと続く、長い白壁で囲われている。そして、自然界の摂理に見事なまでに抗うこのおぞましい光景の内側に見つけたのは、麻生家の土地だった。

 巨大な白蛇があたかもトグロを巻くかの如くに横たわる、その長壁を目にした瞬間、麻生太郎の全身から発散されている英国紳士風ノーブルの舳先に、その英国が生んだ劇作家、バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』が甦った。

 こんな場面があった。

 貴族のパーティーに潜り込んだ下層階級出身のある女性は、あろうことか、ひとりの人物に上流階級の出身でないことを見破られる。身のこなし、語りのすべてを完璧にこなすその女性の出自を見抜いた人物は、こう説くのだった。『あなたの英語は上流階級以上に完璧だからですよ』―。
                             (敬称略)

 


 



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