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近代アルバニア史(民族覚醒~伊による併合)

大掃除したり、鍋を食べたり、近代アルバニア史についてまとめたりしたい季節がやってきました

バルカン戦争以前

民族覚醒の始まり

アルバニア人の民族覚醒は遅かった。そもそもアルバニアの支配は北部のブシャティ家と南部のテペデレンリ・アリ・パシャによる半独立政権に二分されていたし、宗教や言語も多様だった(かつセルビアやクロアチアのように統一運動も起きていなかった)。また、ムスリムのエリートはアルバニア民族として目覚める前にオスマン帝国ののエリートへ同化してしまい、アルバニア人という意識は総じて希薄だったといえる(エジプト総督ムハンマド・アリーはその好例であろう)。

しかしテペデレンリ政権は1823年にはマフムト2世の派遣した軍により瓦解し、31年ブシャトリ家政権も従属を余儀なくされた。その後アルバニアはタンズィマート改革による新税や徴兵に対する反発から蜂起が相次ぎ、特に1847年にラポ・ヘカリを指導者としてジロカストラ州で発生した蜂起はアルバニア南部一帯に広がり、常備軍が反乱軍に敗れるなど大事となった。

ジロカストラの蜂起は最終的に鎮圧されたものの、このように40~70年代にあたってアルバニアでは反オスマン蜂起が相次いでいたし、それに合わせてアルバニアの民族覚醒も始まっていった。先陣を切ったのは言語学者たちである。

アルバニア・アルファベットの模索

先述の通り、アルバニア語は一つの標準語の元統一されていなかった。南部には通商民族トスク族の話すトスク方言、北部には山岳で部族共同体をつくり外界との接触を断つゲグ族の話すゲグ方言に分かれていたし、アルファベットに至ってはラテン文字、キリル文字、ギリシャ文字、アラビア文字が競合していた。

ナウム・ヴェキルハルジ(1797~1846)

アルバニア・アルファベットの模索やアルバニア語普及活動の草分け的存在はナウム・ヴェキルハルジである。彼はアルバニア南部に生まれ後ルーマニアへ移った人物で、1844年に「エヴェター」と題されたアルバニア語教科書をアルバニア南部で配布し、その中でキリル文字と併記しながら自らの考案した文字「ビタクチェ文字」を用いた。

アルバニア語の普及、アルバニア・アルファベットの模索の本格的な始点という意味において彼の活動は大きな意味を持つが、ビタクチェ文字自体はそこまで普及しなかった。この後79年にイスタンブルで行われた会議によってヴェキルハルジやビタクチェを簡略化したクリストフォジの成果を継承した「イスタンブル・アルファベット」が創始されるが、シュコドラのカトリック教徒を中心に「バシュキミ文字」、同じグループから一音一字で構成される「アギミ文字」が創始され、1908年にマナスティル(現ビトラ)で開かれた会議の中で現在と同じものが出来上がった(もっとも、文語の揺れがなくなったのもここ40年ほどの話である)。

プリズレン連盟と武力行使の頓挫

アルバニア・アルファベットに関する論争が白熱している中、アルバニア人に衝撃が走る。1877年に調印されたロンドン議定書には、ディブラ、テトヴォ、コルチャなどの諸地域が西ブルガリア諸州の一都市とされていたのである。これに対しアルバニア人は先述の「イスタンブル・アルファベット」創始に際して活躍したサミ・フラシャリの兄弟アブデュル・フラシャリを中心としてヤニナで集会を開き、アルバニア史上初の自治要求を行った。しかしながらこの要求は無視された。

翌年にはベルリン会議が始まるが、これに際してフラシャリはコソヴォ、シュコダル、マナスティル、ヤニナ各州の三宗教を代表する80人の代表者を結集し、アルバニア分割に反対すべく同盟が結成された。これが「プリズレン連盟」である。

アルバニア諸州(ヴィライェト)
By GalaxMaps - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=101701163

プリズレン連盟は二つの対立勢力が存在していた。片方は保守的な傾向を持ったイスラム派で、アルバニア人以外のムスリムを議員として登用しようとしていた。もう片方はフラシャリ率いるアルバニア派で、こちらは宗教に関係なくアルバニア人であることを重視した。初期のプリズレン連盟では前者の勢力が強く、同盟の憲章「決意の登録」もイスラム色の強いものとなっていた。

プリズレン連盟はベルリン会議に際してアルバニア分割に対する抗議文を送るが、イスラム色の強い同盟はオスマン帝国の権益を守るために作られた組織であったとみられたようで、ビスマルクは「正教徒はギリシャ人、ムスリムはトルコ人である。アルバニア人など存在しない」と述べた。

列強が頼りにならないという事を知ったプリズレン連盟は、ついに武力闘争へ舵を切る事となる。イスラム派の勢力が弱い南部においてアルバニア派の思想は浸透し、78年末には志願兵2~3万が揃い、対してスルタン・アブデュルハミトは81年4月になるとデルヴィシュ・パシャ率いる24大隊を派遣し事態の鎮圧に取り掛かる。両者は激しい戦闘を行い、81年末には「アルバニア臨時政府」の設立が宣言され抵抗が続いたが、イスラム派の寝返りなども生じ最終的には鎮圧された。

第1次バルカン戦争から第一次世界大戦

文化活動こそ続いたものの、アルバニア人の自立を求める動きは一度ここで頓挫してしまった。しかし、バルカン諸国の野望を利用し影響力を高めようと目論む列強の意志によって、アルバニア国家は最初の誕生を迎えるのであった。

第1次バルカン戦争の展開

第1次バルカン戦争は、直接的にはアルバニア情勢を口実にモンテネグロ国王ニコラ1世がオスマン帝国に宣戦布告、バルカン同盟諸国が追随したことによるが、この戦争はアルバニアに対する各国の野望のために始まったものであった。モンテネグロはアルバニア北部領土を欲し、セルビアはアルバニアを通じてアドリア海への進出を目論んでいたし、ギリシャはアルバニアとの係争地北エピロス、ブルガリアはアルバニア東部の「ベルリン会議によって取り上げられた土地」の奪還に向かった。

オスマン帝国軍は各地で敗北を重ねアルバニア地域は次々とバルカン同盟諸国の手に落ちる。しかし、アルバニア人はこれを静観してはいなかった。アルバニア民族主義は、国外に拠点を移しながらも確かに生きていた。

ルーマニアに亡命していたアルバニア民族委員会は列強に援助を要請しつつイスマイル・ケマルをトリエステ経由でアルバニアに派遣。中部アルバニアの有力者と協力しながらヴロラに入城し、3つの宗教の代表83名からなる国民議会と「独立アルバニア」の建国が宣言された。

1912年12月17日にニューヨーク市で発行された週刊アルバニア語新聞Zer' i Popullitの表紙

この独立アルバニアが大きく注目を浴びることはなかったが、これから8か月ほどで第1次バルカン戦争は終結することとなり、ロンドンで戦後処理について話し合われた。以下では、列強諸国が本戦争やアルバニアをどう考えていたのか概観したい。

アルバニア独立と列強

このことは周知の事実だろうが、アルバニアは第1次バルカン戦争の講和条約であるロンドン条約によってヴィルヘルム・ヴィート公の公国として独立が認められた。では、このアルバニア建国を支持したのは誰だったのだろうか。それはイタリアとオーストリア=ハンガリー二重君主国(以下二重君主国)である。

第1次バルカン戦争が始まったとき、二重君主国外務省は当件について会議を行った。参加者の幾人かは「アルバニアが他国の完全な影響下に入ることは二重君主国の死活利益に抵触する」との見解を持ち、結論は「オスマン帝国敗北の場合、アルバニアの自治化もしくは独立化」を目指すこととなった。

また、このことについて二重君主国はイタリアと連絡を取っており、在ローマ二重君主国大使のメーレイを通じてイタリア外相ジュリアーノは「自治国設立の場合、自治のための国際的保障または中立の必要性、アルバニア人の信仰する正教、イスラム、カトリックのどれにも属さない人物としてヨーロッパ貴族を統治者とする」などの二重君主国の取り決めた案を知っていた(彼はこの案について基本的に賛意を示した)。

このような事前のやりとりもありながら、1912年12月イギリス外相グレイが司会するロンドン大使会議が開始した。

会議はセルビアに好意的な反応を示しアルバニア民族主義はウィーンの創作であるとするロシア・フランス大使とアルバニアの自立に利益を見出していた二重君主国・イタリア大使の分裂こそあったものの、17日からの第1回会議では、セルビアの戦争目標たるアドリア海への進出を承認しない旨と、アルバニアのオスマン帝国からの分離が取り決められた。

さらに、アルバニアの国家形態についても議論が進められた。二重君主国大使は自治化され生存可能なアルバニアを主張し、これに対して露大使ベンケンドルフはアルバニアをオスマンの宗主権下に置き6大国の排他的な保護・管理を提案した。大使会議では結論を出すことはなく、二重君主国・イタリア政府にはアルバニア国家の組織に関する見解の提出が求められた。

そこで両国が調整の結果出した案としては、(詳細は省くが)アルバニアを自治公国として建国し、その候補者は二重君主国・イタリア両国が英仏露独に提案する、といった形のものとなる。

もっともこれはそのまま受け入れられたわけではなく、フランス大使カンボンの対抗案を考慮に入れた折衷案が作製された。最終的な妥協案は以下のとおりである。

  1. アルバニアは、6大国によって保障される自治公国であり、主権を持ち、長子相続による世襲制の国家である。

  2. オスマン帝国とアルバニアの間の宗主関係排除される。

  3. アルバニアは中立化し、その中立派6大国によって保障される。

  4. アルバニアの民政及び財政の管理は、6大国の諸委員及びアルバニアの1委員から構成される国際委員会に委任される。

  5. この委員会の権限は5年とする。必要な場合は更新される。

  6. この委員会は、アルバニアの行政の全部門のプロジェクトを作り上げる任務を持つ。委員会は、この活動の結果報告を6か月以内に諸大国に提出する。

  7. 公は、遅くとも6か月以内に任命される。公の任命までは、国家の権限の執行は前述の国際委員会によって管理される。

  8. 公共の秩序は国際憲兵隊組織によって保障される。組織は、識見を持ち憲兵を配下に持つ外国人将校に任される。

  9. この将校はスウェーデン軍から選出される。

  10. 外国人の教練指導将校は、同じ業務を担当もせず、将校、下士官、兵士の訳も担当しない。

  11. この将校の給与は、諸大国の保障のもとにアルバニアの国庫から支払われる。

この後露大使から5~7項における活動期間や任命期間が短すぎるとの批判を受け、イタリア大使の個人的見解として出された10年のマンデート期間が承認された。

ヴィート公のアルバニア

列強によって選ばれたアルバニア公の名は、ヴィルヘルム・フォン・ツー・ヴィートである。彼は、決してアルバニアについて詳しいわけではなかったし、さらに言えば政治に卓越した人物でもなかった。実際、彼が最後に取った選択肢は、アルバニアからの逃亡だったのである。

ヴィルヘルム・フォン・ツー・ヴィート(1876~1945)

彼の即位直後のアルバニアにおいて主要な問題は国境問題だった。当時国境は国際委員会による北部国境画定委員会と南部国境画定委員会が管轄し、13年12月にはフィレンツェ議定書が作られた。しかしギリシャは南部について異を唱え、ヴェニゼロス援助の元北エピロス臨時政府が出現した。ヴィートは臨時政府との交渉を行い、14年5月にアルバニア国内のギリシャ語地域に一定の自治を与えるコルフ議定書が作成された。

しかし、アルバニア愛国主義者らはこれに激怒した。そもそもヴィートの周りには旧来の有力者が固まっていたこともあってか、アルバニア社会の様々な層が反徒となり、ギリシャ人すら反乱に加わった。

外に目を向けてもヴィートの治世は失敗だったと言えよう。バルカンにおける諸紛争と列強諸国の介入の結果たる第一次世界大戦に際して、彼は中立を宣言した。二重君主国政府はこれに対抗してヴィートに支払っていた助成金を停止。生計を失ったヴィートはアルバニアを捨てた。こうして、アルバニアは再び無秩序の時代を迎えることとなる。

ww1から戦間期

ww1の被害と新生国家

無政府状態のアルバニアでは、中立など守られてはいなかった。アルバニアは二重君主国、セルビア、イタリア、フランス、ギリシャ、モンテネグロなどの諸国の軍隊によって占領され、戦場となった。さらには、ウィルソンの尽力によって実現しなかったものの、ユーゴスラビア王国がアルバニア北部を得るよう図った英仏の仲介案、イタリア・ギリシャによるアルバニア2分割案など占領各国によって敗戦国でもないアルバニアの領土の分配が取り決められていた(ウィルソンがアルバニアに関心を払ったのは後述するファン・ノリの尽力によるものである)。

新生アルバニアでは、不在のヴィートの代わりに議会が権力を持ち、議会制民主主義の中で2つの勢力が対立した。片方はムスリム地主層のグループであり、長らくアルバニア後に根付いているベイなどを中心とする。戦間期のアルバニアでこの保守派の代表者はアフメド・ゾグである。もう片方は西欧的な民主主義と近代化を奉じており、その意味において改革派だった。この近代化派の代表者はファン・ノーリである。ファン・ノリはハーヴァード大学で学ぶ傍らアメリカ・アルバニア人を「ヴァルタ」と呼ばれる集団に組織し、ウィルソンにアルバニアの惨状を届けた。また彼はアルバニア正教会の創設者としても知られる。

ファン・ノーリ(1882~1965)
アフメド・ゾグ(1895~1961)

近代化の挫折と政情不安

アルバニアで初の民主的な内閣はゾグ内閣だったが、彼の独裁的な統治に対してアメリカから帰国したノーリを中心とする近代化派がクーデターを起こしファン・ノリが政権に就いた。彼は国内改革に着手するが、これは保守派の反対を受け挫折。ユーゴスラビア軍やウランゲリ率いる伯郡協力のもとアルバニアに侵攻し、ティラナを奪取した。反対派を粛正したゾグは共和制を宣言し大統領に就いた。

改革派の勢力が衰退したことも一因ではあろうが、アルバニアはもっと根本的なレベルで近代化の土台がなかった。国民の非識字率は90%であり、政治的リーダーになることのできる人物の大抵は既得権益層たる地主であり、最終的に政権を取ったのもその派閥の代表ゾグであった。彼もマティの部族長の息子である。

ゾグはこの根本的な問題に対処するため、当時共和国を承認していたイタリアを頼ることとした。イタリア資本でアルバニア国立銀行が設立されたが、これはまさにイタリア銀行の子会社だった。また「アルバニア経済開発協会」によってイタリアのアルバニア経済に対する影響力は高まる一方だった。

26年11月にはティラナ条約が締結され、友好・安全保障の関係が結ばれた。これはイタリアのアルバニアに対する影響力が政治にまで及んでいることを意味した。ゾグは28年3月国王となり、32年にはパリアーニ将軍の軍事使節団を追い返したが、ドゥラス港に22隻のイタリア艦隊が現れたことで、ゾグの抵抗する気も消え失せたようである。39年にはユーゴ首相ストヤノディノヴィチの辞任によって同首相とムッソリーニのユーゴ分割案が消えてしまったためイタリア単独でのアルバニア侵攻が行われた。ゾグは孤立した中で抵抗したが、ティラナが陥落してゾグ一家はギリシャに亡命した。こうして独立アルバニア国家は消滅した。

参考文献

書籍

柴信弘「バルカン史」山川出版社
木戸蓊「バルカン現代史」山川出版社
エドガー・ヘッシュ著 佐久間穆訳「バルカン半島」みすず書房
ジョルジュ・カステラン 山口俊章「バルカン -歴史と現在-」サイマル出版会
柴信弘「バルカンを知るための66章」明石書店

論文

馬場 優「オーストリア=ハンガリーとアルバニア侯国の誕生(1913年)」関学西洋史論集
下浜啓子「アルバニアの独立運動に関する一考察」東欧史研究
石丸 由美「第二次立憲政期のアルバニア人-『Besa(誓約)』紙分析に向けて-」オリエント

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