デジタル「exit」は救いか?

僕たちはこの世に生きている.現実を生きている.しかしその現実は,時に非常に窮屈で苦しい.面倒なことがたくさんあり,体に病気があったり,またお金がなく,人間関係もうまくいかければ,場合によってはこの世は生き地獄となる.

そんなとき,ひとときの間でも,映画やVRやゲームの中や漫画や,はたまた小説を読んで,没頭して,そこにそこでの陶酔感や恍惚感を味わえたなら,それは救いになるだろう.間違いない.私達は現実の苦しさから逃げるための救いの道を求めている.

このときに究極の救済とは何だろうか.そうしたあちらの世界.バーチャルの世界.漫画の世界.SFの世界そちらに住むこと,完全移住でありexitではないか.そうすれば,苦しみから解放されるのだと.メタバースやBMIの多くの(いや一部の?)論者は,その素晴らしさを語る.それこそがゴールなのだと.

しかも現在においてそれは不可能だとはされていない.哲学の伝統においては唯物論,科学の伝統においては,意識科学において意識は脳の計算だということは常識になった.ならばデジタルに拡張したり置換することも可能だと.そしてより自分が望む現実をそこにインストールするのだと.

また現在において,哲学において,意識と物的なものとの紐付けを曖昧にする観念論や二元論をとなえたなら,科学それ自体を否定することにもなりかねない.身体という物的な基盤,つまり複雑で巨大な電気回路に私達の意識は付随していると考えるような唯物論の立場は科学と相性がいい.私達の脳身体や環境も含めてそれを全く同じ機能を果たす機械に移行できたなら,私達はこの脳身体,生命的な生物的な身体が持つ制約から解放される.
(それゆえマインドアップローディングは原理的に可能になることは以下で書いた)

ともかく,現実から身体から解放されるその原理を,現在の哲学や科学は支持しているのだ.これは何を意味するのだろうか.現実からの解放,救済,言ってしまえば「デジタルexit教」としての科学であり哲学が成立しうるということだ.

近代以後,科学的な発展,経済の発展テクノロジーの発展を遂げ,人が死ななくなった.そう簡単に死なない.多くの肉体的苦しみからも解放された.しかしずっと私達の生産性,効率性に駆り立てられるゲシュテル構造から脱することはできていないし,簡単にはできない.(ということを以下に書いた)

ディストピアという言葉が100年以上に生まれているが,今の現実はついにディストピアだと言っても差し支えがないというところまで来てしまった.無能な政治家,予期せぬ戦争,民族間の対立のますますの激化.分断.現実は苦しい.こういう状況においてデジタル世界というのは,現代の数少ない救いの道の一つだろう.甘い甘い誘惑となる.

また,この現在の苦しみの源泉は今に始まったことではない.言うなれば数千年.西洋文明の形而上学的伝統がゆえの苦しみかもしれない.その苦しみの中で,ずっと生きてきたそのありようを解放させてくれるのが,デジタルなのだいうわけだ.ならば,…

しかしこのデジタルexitによる救済は本当に可能なのだろうか.つまり現実から抜け出すことができるのだろうか.結局,現実,物質,身体的なもの,生命的なものに回収され,その試みは失敗に終わり,つまり幻想だったいうことにならないだろうか.

exitには二つある.一つは,電脳化で,生物学的身体(最低限脳の一部)を残すサイボーグ型(草薙素子やマトリックスの状態)か,もう一つはアップロードで,完全に脳身体を機械化するマインドアップローディング型(アップロード(アマプラ)など)である.

この両方において,exit後の世界が地獄絵図にならない保証はあるのだろうか.私はない,というか地獄絵図になるだろうと考えている.その理由は,端的に言えば,主体性を失うからである.マインドアップローディング後の世界ではいくらでも自己複製や合体が可能になるが,そのような状況で「私」という意識を,生命であったときのように主体的にもてるのだろうか.またサイボーグとして脳を電脳化したとして,そうして自在に現実体験できるようになったとして,その制約なき体験を,電脳化する前の不自由な身体のときの体験のような情報量でなまなましく主体感を持って体験できるのだろうか.

自分が体験しているのが現実.ありありと現実を体験し感動できるから,喜びがある.その感動が味わえないのに存在し続けることになったとしたら.

「うーん,つまらない」.身体を捨てたExit後にそう思ったなら.ぞっとする.


しかししかし,そうじゃないのだ!という考えもある.上の話しは「これまでの人間観」を前提にした銀河鉄道999の話だろうと.そうではないものを言っているのだと.

確かに,主体感を持って現実を体験し感動するのが良い!という前提それ自体が崩れたもはや,人間でもない生命でもない機械存在(トランスヒューマンと呼ばれたりする)として,全く違う存在の仕方をするのがexitだというのなら,まさにexitだなとおもう.そうなれば,ようやく人類は救いの道を求めることすらしなくなるだろう.人間ではなくなるので.

けれども,それは,「人間として」私たちが望むことができるものなのだろうか.


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