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名前とか、顔とか、つらつらと

年末年始に、ネット上で本名顔出しするか否かというnoteやツイートをちょこちょこ目にする機会がありました。
それからぼんやりと「自分はどうだっけなぁ」と考えていて。

私の場合のことを書いてみます。
あくまで「私はこんな理由でこうしてるよ」というだけの話で、誰かを否定したり、誰かに賛同したりといった意図はありません。


こんにちは、「ひと」です。
私のこの名前はハンドルネームであり、ほぼ本名のようなもの。これについては特に隠すつもりもないので言ってしまっても問題ないです。
アメブロでも、Twitterでも、ここnoteでも「ひと」です。ちなみにLINEの表示名も「ひと」

私が「ひと」で統一している理由、それは単純に「ややこしくないから」

7年ほど前、アメブロを始めたとき私はまだ音楽活動をしていました。
夫と一緒にライブハウスで歌ったりギターを弾いたりしていたんです。
ブログではそのライブの告知などもしていく予定だったので、リアルな友人知人が読んだときにいつもと違う名前だと戸惑うかなと思って、実際に呼ばれている「ひと(ちゃん)」にしました。

ブログでは、共通の好きな音楽などを通じて顔も本名も知らない人との繋がりも増えていきました。
(今では実際にお会いできた方も何人かいますし、本名で手紙や贈り物などのやりとりをすることもあります)

ちゃん呼び、さん呼び、呼び捨てなどは相手に委ねてみたところ、ブログから繋がってくださっている方のほとんどは私のことを「ひとちゃん」と呼んでくださっています。
実はうれしい。子どもの頃からほぼずっとそう呼ばれて、慣れているから。もういい大人だけどね。


小学生のとき、自分の名前の由来を親に訊いてくるっていう宿題ありませんでした?
私はその宿題が出たとき、ちょっとワクワクしたんです。
そういえば気にしたことなかったけど、私の名前の由来ってなんなんだろーって。


▶︎実際に親に訊いてみて判明した私の名前の由来


・父が自分は変わった名前で苦労したから子どもには「普通」の名前をつけたかった

・苗字とのバランス

・生まれたときに目が印象的だったから


これだけです。
あんまりそんなに気合の入った意味は込められていなかった。
当時、クラスの子たちが割と立派な意味を名前に込められていてちょっと羨ましく思ったなぁ。
でも、今じゃ「名前やその由来に縛られないっていうのは案外楽かもなぁ」とフラットな気持ちでいます。

同姓同名が山ほどいるので、本名で検索しても個人情報が簡単には出てこないっていうところも気に入っています。

特に本名で何かネット上に残していないし、学校や部活で優秀な成績をおさめたとかいうこともないので、もともと何も出てこないとは思うんですけど。

Twitterを始めるときも、最初はほぼアメブロ繋がりのフォロワーさんだけだったので迷わず「ひと」に。
そうやってずーっと「ひと」で来ているので、noteを始めるときにも当たり前のように「ひと」にしました。


私がnoteを始めた理由は、ファーストnoteの「働けないひと」が「働けるひと」になるまで と、これからと ~パプアニューギニア海産をひとつの目印にして~ を置くため。

最初は、使い慣れているアメブロで投稿しようかと思っていました。でも、書いてるうちに迷いが出てきて。

私にとってアメブロは「守り」の場所。
実家とか、地元みたいな安心できる場所。
書いたものも広く多くの人に読んでもらいたいというよりは、見知ったフォロワーさんたちに読んでもらえたら充分。

アメブロの存在は過去にも何度かnoteで公表しているけれど、リンクを貼ったことは一度もありません(原文をそのまま引用したことはある)

以前はTwitterのプロフィール欄にブログのリンクを貼っていたこともあるけれど、今はそれも外しています。

それはやっぱりアメブロが私にとって「守りたい」場所だからで。
アメブロには子どもたちのことやプライベートな内容も多く書いているから。
※子ども関連のブログはある程度経ったらアメンバー限定記事(私が承認しているフォロワーさんしか読めない)に切り替えて、さらに守っている。写真とか、もともと顔は隠しているけど。それでも完全に安全ではないと思うから。

でも、「働けない人〜」は出来ればたくさんの人に届いてほしかった。そんな気持ちで書いていた。
実際たくさん読まれるかどうかはさておき、もしそうなったときのことを考えるとアメブロ以外の場所で投稿するのがいいように思えました。

ファーストnoteでは、わが家が生活に困窮していた時期のことを書いていて。
その文章を読んだ人に万が一ブログの過去記事を読まれて、いろいろ詮索されることを恐れました。

ずっと私のブログを読んでくださっている方ならともかく、全然知らない人が読んだらどう捉えられるか分からない。
「お金ないって言って、こんなの買ってるじゃん。嘘じゃん」って、非難されるかもしれない。

今年のnote書き初めでも書きましたが、私は「贅沢」に対する罪悪感が強迫観念レベルにあるので、他人からの粗探しみたいなことがとても怖いんです。

後ろめたいことをしてるわけじゃないけれど、もしも予想外の方向から核心を突く言葉を投げかけられたりしたら、その一つひとつに対応するだけの気力はきっとない。
私にとっての安心できる場所がそうでなくなってしまうことを恐れました。
だから、「働けないひと〜」の記事はブログから切り離すことにしたのです。


「働けないひと〜」を投稿したらそれっきり、noteは特に使わない予定でした。
でも、なんやかんやでここでも書き続けて、繋がっていただいてる人もいて、いつの間にかnoteも私にとって大事な場所になっています。不思議なものですねぇ。


ところで最近、「人」を「ひと」と表記する方をよく見かける気がします。
noteを始めてから特によく見かけるような。私の周りだけかな?

めちゃくちゃ自意識過剰っぽいこと言いますが、「ひと」って表記を見る度に一瞬自分が呼ばれたような気がして「ドキィ」とします。
もちろんすぐにそうじゃないと分かるのですが。

私はどちらかと言うと「人」と漢字で書くことが多いかな。
ファーストnoteのタイトル「働けないひとが〜」を「ひと」にしたのは、自分の名前と掛けてみようかなっていう遊び心からです。サブリミナル駄洒落です(?)

きっと、その人なりの考えやこだわりがあるのだろうな。
私もいろいろあります。
「子ども」の「ども」や「友だち」の「だち」はひらがなで書きたいなとか、
「歌」はその時々の雰囲気で「歌」だったり「唄」だったり「うた」だったり。

あと、過去に書いた「しにたいという気持ちについて」というnoteタイトルにも表れていますが、「死」を漢字で書くことを昔から避けがちです。
なんというか、文字にした瞬間とても鳩尾辺りがずーんと重くなる気がして。
熟語や歌詞の一部などの場合はそのまま表記しますし、漢字で表記することもありますが何かと避けがちですね…。


そういえば、「ひと」以外の名前で活動してる場所もありました。
rockin'on.com音楽文

音楽文に投稿する際は「名無 ひと」という名前です。
これは、初めて記事を投稿するきっかけとなったamazarashiのライブ『朗読演奏実際空間 新言語秩序』に由来していて、ライブにて演奏された楽曲「ナモナキヒト」と「ひと」を掛け合わせて、「名も無きひと」→「名無 ひと」という感じで出来あがりました。


ライブ(ライブビューイング)に大変感銘を受けた私は、その余韻からしばらくTwitterの名前を「名無 ひと」に変えていたのです。
音楽文投稿時もその名前だったので、そのまま採用しました。

今となっては「名無」と「ひと」の間のちっちゃいスペースいらんかったなぁと思ったりするのですが、多分「名無ひと」で投稿すると別人扱いになってしまうと思うので、このままで。


「ひと」以外の名前、あともうひとつだけあります。

昨年、noteにて「野心表明」をしまして。
簡潔に言うと、「小説を書いて文学賞に応募して賞をとりたい(そしてその賞金でわが家の生活を立て直したい)」という野心。
ひいては、「人生で一度でもいいから小説を書き上げるということを成し遂げたい」という野心。


言葉にするのは怖かったけれど、勇気を出して言葉にしたことで応援の言葉もいただくようになって。
言葉にしてよかったと今は思っています。
挫けそうになるたびに、心を奮い立たせることができるから。

小説が完成したら、応募する際の名前はもう決めてあります。
「ひと」でも「名無ひと」でもありません。

私が初めて「小説を書こう」と思ったのは高校生のときで。
行きたい専門学校を親に反対されていて、お金をなんとか自分で工面したら親も認めてくれるのでは…という思いから「文学賞に応募して賞金を得る」という突拍子もないアイデアを思いついたのがきっかけ。

結局全然小説は書けなかったけれど、何を書こうとしていたのかも忘れたけれど、筆名だけは覚えています。
旧姓バージョンのフルネームを組み替えて、もじって出来る名前(結局「ひと」も入ってる)

もうその名前を使うこともないだろうと思っていたけれど、もし今書いている物語を完成させられたら、その名前で応募するつもりです。


名前については以上かな。
次は、ネット上での顔出しについて。

私のアイコンは、見ての通り顔写真ではありません。
理由は単純に「顔出しするのは怖いから」

顔って思いっきり個人情報ですし…。
私は無名人だけど、守るべき家族もいるので無闇に個人情報を晒すわけにもいかない気がして。


Twitterでもnoteでも同じアイコンを使っています。
これも、「ややこしくないように」という理由から。
アメブロはちょっと違うけれど(昔はTwitterのアイコンもそれだった)
ibisPaintというお絵かきアプリで初期の頃に描いた絵が元になっているので、「初心を忘れない」的な意味が込められているとかいないとか…。

実は、1歳か2歳くらいのときの娘がモデル(似顔絵)なんです。
なので、Twitterやnoteでは赤ちゃんが喋っているんだなーと思っていろいろ大目にみてください。


…というのは冗談ですけど。
いや、冗談では済まない部分もあって。

やっぱりアイコンのイメージってとても強いなぁと思っていて。
アイコンから、私のことを「ミルクティー色のショートヘアの女性」だと思っている人もいるんじゃないかと。女性なのは合ってますけど。

黒髪だし、ロングヘアです。数ヶ月後にはばっさり切る予定ではありますが。

この間のnote書き初めで6年前の後ろ姿を晒しました(けっこう勇気がいりました)が、今もほとんど変わっていないかと。
全然アイコンのイメージと違うでしょ。違って当然、別人なのです。

先述の通り、あのアイコンには「初心を忘れない」的な意味が込められていたりいなかったりするのですが、結果的に娘の姿を借りてるような感じになっちゃってるし、最近「このままでいいのかなぁ」と思うこともあります。
でも、今更変えるのもなんだかなぁ…だし。

私自身がそうなのですが、他人の名前やアイコンって結構覚えていて(リアルでは全然人の名前や顔、覚えられないのに)
フォローしている人じゃなくても、リツイートやオススメで再び巡り会うことがあると「あっ!あの時の◯◯さんだ!」ってちょっと嬉しくなる。

でも、もし名前やアイコンが変わっていたら多分気付けない。
アイコンが変わっても名前が特徴的だったり、逆に名前が変わってもアイコンがそのままだったら「あの人だ」って気付けるかもしれないけど。

私の場合「ひと」ってありふれた名前だから、アイコン変えちゃったら「だれ?」ってなりそうで。
よっぽど「これだ!」という何かに出会うまではこのままのアイコンで行くことになるんだろうなぁ、と思います。


中には、匿名で発言することや顔出しせずに活動することを「誠意がない」「堂々とできない、何か後ろめたいことがあるのでは」と捉える方もいるようです。
私には無い考えだったので最初は驚きました。
でも、そっかそういうふうに捉える人もいらっしゃるんだなぁ、なるほどなぁと今は思います。

個人的には、匿名であろうと顔出ししなかろうと、その人の心や言葉に偽りがなければ何も問題ないと思っています。
そう思うのは、私が知っている匿名のフォロワーさんや、顔も知らない方々の多くがとても素敵で尊敬できる人たちだから。
もちろん、本名で顔出ししている方も含めて素敵な方ばかりなのですが。

アイコンや顔写真、名前(本名でも、匿名でも)だけではその人のことは分からない。
その人が語る言葉や、表現するものに触れてはじめて「好き」になれる。
そうやって自分が「好き」だと思った気持ちを一番信じたい。
臆病なので、疑っちゃったり逃げてしまうこともあるけれど…。
でもやっぱり、私はここやブログやTwitterで出会えた皆さんが好きだなぁと思っています。



そんなわけで、ネット上での名前や顔出しについて思うことをつらつらと書きました。

最後に、「名前」に関する私が好きな音楽をいくつか紹介して終わります。

ひとりの子どものかなしみも
仲間の名前に溶ける
名前、それは燃える生命(いのち)
ひとつの地球にひとりずつひとつ
Every child has a beautiful name
A beautiful name a beautiful name
呼びかけよう名前を、すばらしい名前を

ビューティフル・ネーム(ゴダイゴ)


name(Salyu)

早くはやくはやく名前を
呼んでよんで仲良くしてたいよ
どうして目覚めて涙が出ちゃうぐらい
好きになってしまったの あなたを


花の名(BUMP OF CHICKEN)

あなたが花なら 沢山のそれらと変わりないのかもしれない
そこからひとつを 選んだ
僕だけに 歌える唄がある
あなただけに 聴こえる唄がある


美しい名前(THE BACK HORN)

何度だって呼ぶよ 君のその名前を
だから目を覚ましておくれよ
今頃気付いたんだ 君のその名前がとても美しいということ


名前(amazarashi)

最後は大好きなamazarashiの『名前』
THE BACK HORNの『美しい名前』と同様にマッチや炎が登場するMVが印象的。
ゴダイゴも「名前、それは燃える生命」と歌っているし、Salyuの『name』は「赤ちゃん」のことを表していると聞いたこともある。
名前は生命(いのち)の象徴として、しばしば表現されるのかもしれない。

君のこれまでをいっぺんに語ることができる
名前なんてそうそうないよな
だから どんな風に呼ばれようと
好きにやるべきだと思うよ
君を語る名前がなんであろうと
君の行動一つ程には雄弁じゃない


個人的には、これに尽きるなぁと思うのです。

これからも私は、好きな人たちの言葉や表現に触れていきたいです。

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