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つまり、愛していると言いたい。

先日、研究室で一緒だった親友の結婚式に参列し、友人代表のスピーチをしてきた。せっかくなのでその内容を記録しておく。

結婚は幸せかどうか、親友が何だとかを考え始めるのは大体ロクな状態ではないのだけれど、今回だけは前向きなもの。大好きな彼女のことだからこそ、最高の気分のうちにしたためたい。

きっと傍から見たら、取るに足らない物語だろう。同性二人の仲良し小好し話には、恋のライバルも、身分の格差も、難病の余命も何も無い。

だけど私という目を通した世界では、彼女と過ごした日々はかけがえのないものだ。人生にセーブポイントがあるなら、きっとあの日に置く。そして、今も駄文を書きながら想いを馳せている。

※以降の名前は仮称。親友である新婦はみさ、新郎はやまだ君。私の名前は、ウーロン茶。とする。




やまださん、みささん、ご結婚おめでとうございます。ご両家並びにご親族の皆様には、心よりお慶び申し上げます。ご紹介に預かりました、新婦友人のウーロン茶と申します。みささんとは、大学時代の研究室の同期です。

私とみさは、学部4年から修士卒までの3年間、同じ研究室でした。今まさに新郎新婦のように隣同士に座り、多くの時を共に過ごしてきました。なので、もしかしたら、今日やまだ君の席には、私が座っていたんじゃないかと、淡いヤキモチを抱いている次第です。(←ど滑りました)


私達の関係は、友人であり、同期であり、親友、仲間、・・・あらゆる言葉で表現することができると思います。ただ、どの言葉が適切かと言われると、どの言葉をとってしてみても、私達の関係性を正確に表現できないような、すこし、物足りなさを感じます。

実のところ、3年間一緒に過ごしながらも、二人だけでどこかへ遊びに行ったり、飲みに行ったり、旅行したりすることはありませんでした。いわゆる世間の「友達」「同期」とは、異なったものかと思います。研究室の中でも、研究テーマが異なり、フォローし合う「仲間」でもありませんでした。

こうして言葉にすると、「うちら仲良かったっけ?」って心配になりかけるのですが、大丈夫です!安心してください!!私にとってミサは、かけがえのない存在であることは間違いのないことなのです。1つ、エピソードをお話します。。


研究室生活は非常に忙しく、大詰めになってくると、終電、あるいは徹夜することも続き、肉体的にも精神的にもかなり苦しい状態でした。追い込まれてくると、「まあ、ここまでやれば卒業できるか」という妥協が頭をよぎり、帰ってシャワー浴びて布団で寝たい誘惑に負けそうになるのでした。

もう帰っちゃおうかなと、ふと彼女を横目に見ると、黙々と課題に向き合う姿がそこにはありました。その眼差しは、今も私の脳裏に鮮烈に焼き付いています。みさにとっての研究の到達点は(同じく、部活も仕事もそうだと思いますが)、怒られなければいい、卒業できればいいという低い次元ではなく、自分が納得できるかどうかなんだなと、たとえ言葉は無くともその姿勢から、自分自身に向き合うことの価値を教わりました。

そして、みさにとっても、私のことを、同じように強さの源だと思ってもらえていたなら、これ以上うれしいことはありません。私達二人の関係は、誰かが考えた言葉で当てはめる必要のない、私達だけの関係性なのです。


みさを褒めるのはこのぐらいにしておきまして。最後に。
「夫婦」という言葉はありますが、誰かが作った役割や夫婦像なんかに囚われず、お二人にとっての有りたい姿を追求していってほしいと思います。どんな言葉をもってしても言い表せないほどに、かけがえのないものになると、信じています。

大変長くなりましたが、これをもちましてお二人へのはなむけの言葉とさせていただきます。本日は、誠におめでとうございます。




なげぇな。そしてもはやラブレター。これが正解なのかはもう振り返ってもしょうがないのでやめておく。最後に一言だけ(まだしゃべるのかよ)。


SNSやマッチングアプリが普及した世の中で、私達は無限に誰とでも繋がれる、何歳からでも、どんな人とでも、と思ってしまいがちだが、それは違う。インターネット越しにそう見える幻想なのだ。

人と人が本当の意味で心の奥底で繋がる瞬間なんて、すごく貴重で数えられるほどしかない。それを私は彼女から学んだ。

改めておめでとう。愛しているぜ。



おしまい。

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