わからなぬ

「きょうだい児」という言葉は今どのくらいの知名度を得たのだろうか。

該当する人たちのことをどれほどの人が知っているのだろうか。

きょうだい児とはすなわち「障害児の兄弟」を指す。障害児の兄姉弟妹。




11離れた私の兄は重度の障害を持っていた。

両親ともに兄を生かすこと、兄が兄らしくいられるようにと育ててきたことを間近で見てきた。家族だから、私もそれを支えて応援していくのが当たり前なのだとずっと思っていた。

兄のことで心無い言葉を言ってくる同級生や先輩も居た。旅行先では奇異な目で見られることだらけだった。知らない人からしっしと手で払われることも、石を投げられた事もあった。とても恐ろしかったけどそんな体験を両親に言ったら両親が傷つくと思ったから言ったことはない。

一緒に居た兄には他人からの悪意が見えてないのか、実は気付いていたのかは私には分からなかった。今は後者な気もしている、兄は空気を察する能力に長けていたから。

それでも感情の制御はひどく難しく、怒鳴り散らされたり、物を投げつけられることは多かった。冗談抜きで殺されかけたこともあったけど、それも「家族だから」と私は対して気に留めないふりをしていた。

「また機嫌悪いみたい」なんて笑って母に伝えたものだった。


それでもある時「兄と歩くの、なんか恥ずかしいんだ」と言葉にした時、いつもは温厚な母がひどく怒ったのは今でも思い出せる。

「家族なのに何てこというの」「薄情者」「あなたは良い子なんだから」「あなたは歩けるんだから」「あなたは話せるんだから」「どうしてそんな事言うの」母は怒りながら泣いていた。

母を泣かせたいわけではなかった。やっぱり言ってはいけなかったんだと、謝り倒したその後一人の部屋でひどく反省した。

あの頃きょうだい児なんて言葉を私は知らなかったから、自分の悩みも不満も誰にも言えなかった。

両親からも学校からも近所の人からも、求められたのは「兄の面倒を見る優しい妹」だった。

友達にでも言えたら良かったのだろうけど「ーーはえらいね」なんて言われると少し良い気もしてしまって。そんな少しの良い気分のために「そんなことないよー当然だよ」なんて言ってしまう私がいた。自業自得だった。


あの頃とても寂しくて不安だった。兄はもともと生まれてすぐ死んでしまうと医者から言われていた。それが奇跡的にも半年、1年、5年、20年と生きてくれていた。

親が死んだら兄はどうするのだろう。私が保護者になるのだろうか。

どこかの施設へ入所するとなっても、そのお金は私が払うのだろうか。

両親は「心配しないでいいのよ」と言うばかりで、私に兄の障害の話をあまりしたがらない人たちだった。それは優しさに違いなかった。

けれど分からないことがなおさら私の不安を煽り立てた。

進路も交際相手も、何かを決める時はいつも兄が頭の中に居た。

今ならそれがしんどかったのだと言葉に出来るが、当時はそんなこと言えるはずもなかった。インターネットが今ほど身近じゃないあの頃は、誰も教えてくれない分かってくれないと勝手に落ち込んでいたりもした。


兄が死んだ時、私は泣いた。

悲しい気持ちはもちろんあった。でもそれだけではない。

私の未来は私だけのものになったのだと、ホッとした私が確かにいたのだ。



母は兄の死を自分のせいだと責め続けていた。葬式のときも、きっと今も責め続けている。毎朝兄の写真に手を合わせてお経を唱えるのはきっとそのためなんだろうと思う。

でも兄への献身を間近で見ていた私は、母が苦しむ姿を見たくなかった。

それでも「そんなことないよ」の一言が、未だに喉につっかかって言えないのは。

自分でもまだ、気持ちに整理がついていないからなんだろうと。

そういうことにしている今は。


兄は幸せだったのか。私には正直分からない。

「むしろ幸せでないと困るのだ」

そんなひどく自分勝手な言葉が出てくる自分を私はあまり好きになれない。


あの頃「きょうだい児」という言葉と、きょうだい児を案じる何処かの誰かの存在を知っていたら。

私はもっと生きやすく、兄のことも、両親のことも今以上に愛せていたと思う。

もちろん今からでも遅くはないだろう。

私は今更兄の障害について学んでいる。

知れば知るほどいつかの両親が言う通り、私はあまり心配しなくても良かったことが今になってわかってきた。

私の未来は元々私だけのものだった。

そうなるとあの時の涙が、悲しみや慈しみだけの涙でなかったことが情けなく思えてきた。

兄は怒っているだろうか。そんなことを最近思う。