私見80
耳障りの良い言葉は意識的で、その逆も然り。
一応の注釈を入れておくと、ここで言う言葉とは人間から発信されるものを指しています。
私も大分長いこと分かっていなくて、今でも時々忘れてしまうこととして
「人間は無意識的に言葉を発信できる」という事実があります。
会話に限ると、無意識的な発信の方が多いのでは?とも思いますがどうでしょう。
少し前にTwitterで以下のツイートを投稿しました。
このツイートは単純な好奇心とちょっとした確認でした。
想像以上に反応もらって好奇心が満たされた、というより単純に楽しかったね。
そして、ちょっとした確認の感想としては「やっぱりね…」といったところでしょうか。
ここからは便宜上、「5万回言われたこと」を「5万言」と呼びます。
私の文面の誘導もあったかと思いますが、いただいたリプライからもどことなく5万言へのうんざり感が匂っていました。
そりゃそうよね。私もそう。5万1回目もそう遠くない未来やってくるし。
何を確認してたかというと、「5万言は私も言ったことがある」ということ。
前述した感想を補足すると、「やっぱりあるよね…」でした。
誰かの5万メーターの内の1目盛りを動かしたことがあります。
私見49の通り、そんな目盛りは絶対に動かしたくない筈なのに。
ここで最初の方に書いた意識的無意識的の話に戻りますが、
私含め5万言を口または指に託す時は無意識的だと思うんですよね。
もし「この言葉を発信しますか?」と聞かれたら絶対に「いいえ」を選べるのに。
星の数をも凌ぐ、自分以外の人の発信の数々もそうであるはず。
私が他の人の発信に強く憤りを感じないのはそういった心臓の弁のような機能を果たす考えがあるからかもしれません。
怒った方がいい時に怒れないのは完全な欠陥品なのですが。
心臓の弁のような機能といいように例えたものの、あまりにもその考えにも副作用があります。(そもそも高校生が習う範囲の知識を例えに使わない方がいい)
それが1行目に書いたことです。
耳障りのいい言葉は意識的で、極端に言うと軽度の嘘だと捉えてしまう。
誰か病名をつけてほしい。
もちろん、全部がそうではないし、意識的であることが悪いと思っているわけではありません。
ただ、無意識的に出てこない耳障りのいい言葉はどうしても天然ではなく「整えたもの」だと感じてしまう。
ステージ上の言動、各媒体のインタビューの受け答えは勿論、長文のSNS投稿や何かしらの具体的な感想なんかもそう。
自分のことを言うと、このnoteなんて一言一句が意識的なものです。
どうしてもカッコつけちゃうし。
私はこの先何かに心酔できるかしら。神?
けど神も人が意識的に伝承しているものだとしたら…?
その一方、休日に会う人たちは意識的な「整えたもの」も無意識的な5万言も全部ひっくるめて信頼していることも事実で。ある種の心酔と言っていのかしら。
今書いた余りにも耳障りがいい2行も「整えたもの」であるものの、全くの本心であるのが難しいところ。本当に難しいところ。
無意識的に本当のことを伝えることが理想なんだけど、無意識的だと5万言の例のようにあまりにも稚拙な言葉しか扱えず、かといって意識的であればあるほど本心とはかけ離れていってしまうような感覚。
似たようなことを過去の私見でも書いてるし、本当にずっと考えていることを改めて文章にしたくなるのってなんで?
けど、この内容を居酒屋やカフェでされても困るよね。
どこでするのが正解?心療内科?
そろそろ自分でも何書いてるかわからなくなってきたので締めたいと思います。
まとまりのない話で申し訳ないのですが、今回ばかりは頭がおかしくなりそうなので読み返さずに投稿しようと思います。
流れる言葉のプールに身を任せたくはないですね。
ただ、流れるプールで逆向きに泳ぐことは決して見ていて気持ちのいいことでないんですよね。
ちなみにこの世の例え話は全部意識的で最悪です。
ところで、「5万言」って脳内でどう読んでました?
私の中では「ゴマンゴト」でした。
引き続きよろしくお願いします。
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