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精神障害の啓発とその支援の変化と関わってきて〜第二幕・施設コンフリクトを経験して〜

はじめに

第一幕で理解促進事業が始まりを書いて順調に啓発活動ができていたように感じると思います。啓発活動を重要視していきたいと考えたのはその数年前に施設コンフリクトを地域の中で体験したことが自分の中にはありました。啓発活動の重要性を考える上でとても大事なこととして施設コンフリクトについても書いておきたいと思います。

1.施設コンフリクトとは

施設コンフリクトについては野村が「コンフリクト」とは、違う方向性の目標を追求する二者以上の間に生じる対立、葛藤、摩擦、紛争などの概念のことで、施設建設時のコンフリクトを「施設コンフリクト」と定義する」(野村恭代「施設コンフリクト 対立から合意形成へのマネジメント」 幻冬舎ルネッサンス新書 2018)としています。
ようは精神障害者施設ができる際にその周辺住民から反対運動が起きてしまうことです。といっても何も精神障害者施設が建つ時だけでなく、高齢者施設の場合も起きたと聞いたことがありますし、幼稚園保育園ですら施設コンフリクトにあうことがあるということですから、住民は何が建ったらコンフリクトしないのか?ということにもなりますが、もちろんこれは住んでいた人たちからすれば生活状況が変化するかもしれないので大問題になるのは当然のことなのです。
施設ができることで地価が下がると考える人もおり、住民の生活環境や住民の生活、その経済的な問題などいろいろな難しさが絡んでいるのが施設コンフリクトの難しいところかと思います。

しかし何といっても一番大きな問題は住民からすれば「得体のしれない人たちが来て何かの作業などをする」怖さなのだと思います。この住民感情にどう寄り添うのか、ということだと思います。

施設を立ち上げようとしている側からすれば、「話せばわかってもらえる」と考えるくらいに簡単なものと捉えていたところに反対運動という形で起きるのでまさに「寝耳に水」と思ってしまうくらいのことでもあります。

2.施設コンフリクトの始まり

施設コンフリクトが起きたのは2002年でした。地域に新しい作業所を作ろうと精神障害者を支える市民の会と地域の精神科クリニックが中心となって考え、施設運営をしたいスタッフが中心となって、とある事務所を借り、喫茶型の作業所として作っている最中でした。
小さな商店会があり、そこに立ち上げるスタッフが挨拶に行ったところ精神障害者の作業所ができるということを知った住民が「どういうことなのか説明してほしい」と言ってきたのです。そこから建設反対の署名が300強ありました。
住民に説明会をするまでは改装工事も止めて下さいという話もあり、一旦工事を停止しました。

3.第1回住民説明会

1回目の住民説明会では施設長予定のスタッフと近くにあるデイケアソーシャルワーカー(ようは私)、精神科医が並んで話を聞きました。
「精神障害者は怖い」「なんでこんな住宅街にこういう施設を作る必要があるのか」「他に作れる場所はあるはずだ」「精神障害者がなにかトラブルを起こしたときに誰が責任を取るのか」など質問や意見が飛び交いました。

「精神障害者は怖い存在ではない」
「この地域にも精神障害者は暮らしており、そういう人たちの居場所としても重要な役割を果たす施設」
「通所メンバーがトラブルを起こすことほとんどないと思われるが、それは普通の店舗であってもトラブルが起きる可能性があるので絶対とは言えないし責任は施設やその本人が取るし、トラブルが起きる可能性はほとんどない」
などの話をしてもほとんどは相手に響かない話になりました。タイミングが悪かったのはその前年あたりでまったく違う地域ではあるものの、知的障害者の作業所のメンバーが起こした事件があったことは少なからず影響していると思えました。

打ち砕かれた・・・

甘かった・・・

誰もちゃんと話を聴いてくれていない、ただただ反対のための話をしているだけじゃないか・・・

という言葉が頭の中をぐるぐる回りました。

説明会が終わり、これらについて住民が納得できる答えを持ってくるという約束をしました。
終了後、数人の住民の方々が「私は本当は反対してないし、むしろ困っているからできてくれたら助かる」
「周りが反対してるから反対の署名はしたけど本当は応援しています」
このような言葉は涙が出るくらいとてもありがたい言葉でした。そのあと施設長さんの元には他にも励ましのお手紙などが届いたそうです。

4.第2回説明会まで

第2回の説明会までに市民の会では以前違う地域であった施設コンフリクトについてのVTRを観、話を聴きに行きました。コンフリクト事例をいろいろ調べました。
改築工事を止めたままで一カ月以上が経つのは経営的にもとても大変な状態です。今のような法人格などがなかった時期なので、施設長をするスタッフさんが自分の貯えを削りながら施設建設を行っていました。
詠み人知らずは職場にも住民から連絡があり「住民から苦情が出ているので施設建設の話には一切関わるな」と職場からの命令が出てしまい、そこから手を出せなくなりました。
とはいえ、表に出ないでできる何かを考え、住民説明会のチラシをコピーしたり、ポスティングする市民の会のスタッフたちのための食事(おむすびくらいですが)を作ったりしていました。本当に役に立てずに悔しい思いをしていました。

5.第2回住民説明会

詠み人知らずは表に立つことができなかったためとても悔しい思いをしましたが、今回は市役所障害福祉課、保健所精神保健福祉相談員という公的機関の方も来てくれました。

反対する理由はいろいろありますがようは「知らないので怖い」ということはハッキリしていました。しかし反対している人たちが賛成に回る話に耳を傾けるだけの状態にないのは明らか。

どれだけの話をしても数字を出してもダメなものはダメ……ということでした。

「結局来るのはキチ○イなんか、○ーなんかどっちだ!」と詰め寄る住人もいました。

駅から作業所までスタッフが迎えにいくという案も出されましたが10分おきに電車が来る場所でそのような送迎はスタッフ数としても現実的ではありませんでした。

「私らはその人たちのことを知らないし、知らないから怖いのであってちゃんと説明してくれたらよかった」と言ってくれた人もいましたがそれもニュアンスとしては「今更そう言われてもとってつけたようにしか思えない」というものでした。私たちは第1回の説明会でもそうお伝えしていましたが、それは届いていなかったようでした。

悔しい……

そんな気持ちもありました。とはいえ結論は最後まで出ず、住民の代表と施設側で継続して話し合うことになりました。

6.住民の不安に寄り添う姿勢を作る

その後……3回目の住民説明会はありませんでした。例えば暴力事件があったときに住民が泣き寝入りするようなことは困る、責任の所在をちゃんとしてほしい、などのトラブルにきちんと対応することを約束し、何をしているのか住民の代表も含めた運営委員会を毎月開くことを提案したところ、何がなんでも反対というところから、やるのならちゃんとやってくれ、どんなことしてるのかもちゃんと分かるようなしてくれという言葉もあり、運営上住民が不安になるようなことがあればすぐに止めてもらうことになりました。そのため、毎年何をしているのか、どんなことがあったのか住民が知るために住民説明会を定期的に行うことが約束されました。そんなトラブルや問題が起きるなんてことはないと思いつつも万が一のことを考えていかなければならないことは当然のことと思いつつもメンバーさんたちがそんなに怖い存在だと自分たちも思っているように感じてしまい、複雑な気持ちにもなりました。

運営委員会には詠み人知らずは第三者委員として参加しました。毎月何をしているのか、どんなことをするのかなどメンバーさんも参加して運営委員会は始まりました。

ほどなく、なんとか店舗はオープンを迎えました。
喫茶店を考えていましたが、向かいに喫茶店があるので喫茶を避けおむすび屋さんという形でランチ営業を中心にした店舗です。
オープンの日には近所の人たちもそれなりに来店してくれていました。もちろんオープンのチラシのポスティングなども行い、ご近所の皆さんに来店を促していくようにしていました。

詠み人知らずのデイケアのメンバーもオープニングスタッフとしてその場にいましたし、メンバーが陶芸で作ったおむすびを置く皿、箸置きがお店に花を添えることがとてもうれしかったです。
運営委員会では最初は住民代表の方も刺々しい態度がありましたが、毎月担当してくれるメンバーさんがお茶を出したり、一緒にいろいろな問題を考えてもらっている中で少しずつ理解していただけるようになっていきました。運営委員会の中でプラスな意見も出してくれるようになりました。飲食店をしていることもあり、飲食店ならではのアイデアや意見も出してくれるようになっていきます。

それ以外にも施設長さんは、店舗の前だけでなく周辺も清掃する、前を通った人にはお客さんでなくてもキチンと挨拶をすることをメンバーさんにしてもらっていました。店舗型でもあったので、メンバーさんたちにも徹底しやすかったこともあったようです。
またご近所の飲食店にはメンバーさんと一緒にランチやカフェとして意識的に使うようにしていたということでした。
施設長さんは積極的に作業所がある商店会にも参加し、コミュニケーションを取っていました。店舗型の作業所を本当にうまく使って、地域に開けた作業所としてがんばっていました。これは数年後の話でしたが、例えば高齢者世帯におせち料理を届けるための基地としての役割を担ったりもしていましたし、商店会の旅行にも参加していたので、本当に地域に入るための努力や工夫を本当にたくさんされていたな、と思います。

このような地道な対応はとても大切なことなのだと思いました。コンフリクトの多くは「知らないから怖い」というところからくるものだけではなく、コンフリクトを受けた側も「知らない人にはキチンと伝えること」その伝える努力と工夫が必要なのだと思い知りました。とても小さなこともとても大事にしないといけないのだと思いました。「聞いてくれない」「分かってくれる訳ない」となってしまうのはこちらが地域に対してコンフリクトしていることにもなるのだろうと今更ながらに思います。

7.1年経過後

一年が経過し、住民の皆様には作業所がやってきたことを再度住民説明会を開く時期がやってきました。
もちろん特に大きな問題なく運営してきたものの、やはりよく思っていない人も少なからずいるだろうと予測しながらも、あれだけの反対にあった後でどれくらいの人が関心を持っているのか分かりませんでした。
詠み人知らずは運営委員ではあるものの業務の関係があることや職場に苦情があった経過もあり、この住民説明会も参加はできませんでした。ですが、情報は教えてほしかったので説明会終了後すぐに連絡をいただきました。
住民参加者は・・・6人だけでした(違ったかもしれませんが、一桁だけだったということは記憶しています)。

関心がなくなったのか、問題がないことでよかったという承認が得られたということなのか、何にしても、今後住民説明会は必要がある場合にはするものの、特に問題がなければ行わないこともこの説明会の中で話して終了となりました。


コンフリクトは本当に「知らないから怖い」ことの集合体であり、知ることができれば大きな問題にならないことを知る機会となりました。今でこそ当たり前にそのように感じることはできますが、当時はなかなかそのように考えることはできなかったと思います。不幸にもコンフリクトで場所を変えざるを得なかった施設も多くあるかと思います。詠み人知らずが関わったコンフリクトはなんとか終息しましたが、このときに詠み人知らずがしたことは何もありません。自分がソーシャルワーカーとしていかに無力な存在なのか思い知らされただけでした。

8.その後のこと

この後10年以上経過した後、建物が老朽化してきたため、この作業所は移転することになりました。しかし今度は近くにあるところに移転する場所を貸してくれる協力者の方も出てきたことで移転もスムーズに進みました。この作業所が本当に地域に密着して、開かれた作業所であり続けたことがこのような結果を生み出したと考えます。
詠み人知らずとしてはこのような経験をどうやってソーシャルワークとして考える教材にするか考え、一度だけですが、当時非常勤講師をしていた専門学校でコンフリクトを教材にして授業をしたことがあります。

「コンフリクトがある地域でソーシャルワーカーをしているあなたはこのコンフリクトをどのように終息させますか?」

というテーマで学生に考えてもらいました。グループワークで7つくらいのグループで話し合っていただきましたが、学生さんらしいアイデアがたくさん出てきました。別の場所に変えていく、あきらめるといったアイデアはありませんでした。学生さんたちがきちんと地域住民と向き合い、寄り添って住民と手を取り合っていけるアイデアをかんがえてもらえたことがとてもうれしかった覚えがあります。特にコンフリクトのあった当時はあまり発達していなかったとはいえ「当事者に話してもらう」というアイデアはコンフリクトの中でのそのメンバーの負担を考えるとなかなか難しいと思えました。しかしコンフリクトが「知らないから起きる」ものであればあるほど「当事者に話してもらうこと」はとても大切なことなのだと思えます。

当時の作業所メンバーでコンフリクトがあったことを知っているメンバーは数人しかいません。そのメンバーさんたちにどこまでお願いできるか分かりませんが、そのような場所にでてもらい話をしてもらうことはとても価値があることであり、そのようなメンバー(たとえばピアサポーター)を地域で育成していくことはとても重要なものだと思えます。今であればおそらくあの人とこの人にお願いできるかな、と考えられるメンバーが自然に育っていることも詠み人知らずにとってとても幸せなことなのだと思えます。
啓発活動を考える時、詠み人知らずが一人で講演をしてもおそらくその言葉はきちんと響かない可能性があります。当事者の方でお話がうまい方がいればおそらくその人のお話のほうが何倍も説得力があるのだと思います。そのような人がいればもちろんそれはそれでよいことだと思います。しかし、そのような人がどれくらいいるでしょうか。
もっとたくさんの人たちに関わってもらい、メンバーにも負担が少ない形で「語り」をしてもらえる啓発の形があってもいいのではないかなとも思えます。当事者の方だけが語るものとそれを支えてきた支援者がいる場合は二人が語ることはとても意味があるものになると考えています。

コンフリクトは「知らないことへの恐怖から始まる」「知りたいと思っていないことには興味も持たないし、聞いても入らない」から始まるということはコンフリクトに間接的にでも関わることでとても意識することができました。
詠み人知らずがその後啓発活動に関わっていく中でも、このコンフリクトはとても大事な経験知となりました。特に施設長スタッフさんが見せてくれた地域や住民への寄り添い方は本当にとても勉強させていただきました。

このような姿勢を自分ができるのかどうかは分かりませんが、講演などをさせていただく時に、どのようにすれば伝わるのか、伝え方としてどのように見せるのか……はとても重要だと考えるようになった出来事だったことは間違いありません。そういう意味でもこの体験は詠み人知らずのソーシャルワーカーを組み立てる大事なピースでもあります。この施設長がしてくれた地域への寄り添う方、支援の仕方を間近で見れたことに心から感謝しています。自分自身が啓発などに関わる時にまず自分に言い聞かせることは「分かってもらうためにはその人に寄り添えること」

なかなか難しいのでまだまだ失敗することも多いのですが、講演や研修の資料づくりや当日にいつもこのコンフリクトのことを思い出します。忘れてはならない姿勢として多分これからもあるのだと思っています。

さて、
次回は啓発を行う当事者との関りとして、今も一緒に講演活動をしているまたき亭いっぱいさんとのことについて話してみたいと思います。彼との出会いと関わりも啓発を考える上でとても勉強させていただいたことがたくさんあります。
お楽しみにしていただければ幸いです。

なおこのコンフリクトの話、詠み人知らずは間接的な関わりなだけですが当事者でもある本人の語りが知りたい方はこちらの動画をご覧くださいませ(記憶違いでなんか違うところがあるかもしれませんが苦笑)

出典:フクシの未来デザイン研究所

https://youtu.be/xRisgPKyK4U

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