子供のアタマと大人の身体

さいきんTwitterのタイムラインをみると、12歳児童に対する虐待事件に関する判決(事実はないと判断されて無罪)が不当であると怒っている意見をよくみかける。でも(自分の見る範囲だけど)かなり感情的な意見が多い。

もとより虐待事件というものは単純なハナシではなく、事情を知らない部外者が思い込みで簡単に判断できるようなものではない。また児童虐待の疑いさえあれば、事実確認をせずに容疑者をバッシングしてよいというものでもない。

ところがそういった事実を吹っ飛ばして、「児童虐待そのもの」に対する怒りをぶつけている人がけっこういるのだ。

もちろん、いまの社会、女性や子供などの弱者が被害者になりがちであるし、その場合も十分な対応がなされているとは言いがたい。また司法判断に対する不信感が高まるような案件が起こっているのも事実だ。

しかしそれらを差し置いたとしても、いくぶん単純化すぎる意見が多いようだ。現実に起こった事件を判断するときには、それなりに複雑な事情や背景が存在する可能性を考えて、注意しなければならないはずなのに……

ここで思い出すのは、松本清張の社会派推理小説だったりする。戦後一世を風靡した作家であり、多数の作品が映画化されている。

清張の作品では、「悪漢と探偵」的な勧善懲悪で犯罪が描かれることはほぼない。一つの事件にいろんな立場からいろんな人々が関わり、さらにそれらの人々の諸々の事情が絡み合っている——そういった事件の社会的な複雑さそのものが、「社会派」推理小説のなりたちだった。

ところが現在そういった「複雑さ」はしばしば敬遠されてしまう。Twitterなどで個人がマンガや映画などを語るときに「シンプルな勧善懲悪のほうがよい。悪役も実は悪役なりの理由があって……みたいな複雑な設定はもうたくさんだ」というような意見もよく見かける。

また、小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」などは、扱う内容はもう少し複雑になっているが、基本的には勧善懲悪の図式に則っており、対抗する相手を戯画化して貶めることでカタルシスを提供している。つまり、はっきりとした敵味方を作って、議論をエンタテインメント化することで、人気を得たといえよう。

勧善懲悪は一種の様式美であり、それなりのインパクトやカタルシスを読者に与えるのは事実である。しかし現実に起こった事件を読みといたり判断する場合には、勧善懲悪の図式はそのまま「使える」ものではない。

現実に起こった事件を、たとえば敵味方といったなんらかの様式に単純化したドラマとして理解しようとするやり方は、いわば子供のアタマの思考といえるだろう。そちらのほうが分かりやすいし、感情的に納得できるからである。しかし、成長した大人が子供のアタマしか持てないとなると、社会の複雑さの前では困ったことになることも容易に想像できるだろう。

なぜ現実に起こった事件を「子供のアタマ」で理解してしまおうとするのか? おそらく大人の中にも子供が存在しているのだろう。虐待事件について「中の子供(インナーチャイルド)」が特に敏感に反応しやすいのは、理にかなっているだろう。

とはいえ、様式美などの「物語の力」をもっとうまく活かせないものだろうかとも思う。おそらく、物語を作る側はよく分かっているだろう。物語を対象として消費する読者も、おそらく、分かっている。物語を物語という枠組みで捉えることが難しい場合、大人であっても子供のアタマで世界を見てしまうのではないだろうか。