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「コロナ禍最高だった」ツイートの話

・新型コロナウイルス(以下『コロナ』)
は最悪だが、
・コロナ禍
は最高だった。

僕はそう思っている。
あくまで「僕は」である。

そんな気持ちを込めて、Xに以下のような投稿したところ、賛否両論が巻き起こってしまった。


一応、

「コロナ自体が最高とは言っていないよ!」

という予防線を張ったのだが、どうやら足りなかったようなので、ここに詳しく自分の考えを記そうと思う。

まず、自分の考えは、以下に挙げる三点のとおりだ。


1.今でもコロナは怖い

僕自身は基礎疾患もないため、自分が罹る分には風邪のような症状で終わる可能性が高いのかもしれない。
しかし、基礎疾患がある人やお年寄りなど、そうではない人もいる。
自分が要因の一つとなって他人が重症化したら嫌なので、そういう意味で怖いと思っている。

また、仮にただの風邪だったとしても、やっぱり罹りたくない。


2.当時の外出自粛は必要だった

コロナが原因で世界中では何百万人も亡くなっており、当時は治療法もなかった。
未知のウイルスを相手にしていたため、「外出自粛」の措置は必要だったと考えている。

上記のツイートに
“コロナ禍は旅先が空いていて最高だった”
というようなコメントがたくさんついているが、僕が言っている「最高」は、それではない。

『テレワークの導入』
『不要な仕事の消滅』
『体調不良時の休暇取得のハードル激下がり』
『ソーシャルディスタンスという概念の普及』

など、むしろ旅とは真逆のものを指している。


3.全部復活させるのは愚か

今は、普通に生活をすればいいと思っている。
衛生に対する考え方に温度差はあれど、基本的にはコロナが流行る前と同じように過ごせばいい。

ただ、
コロナ禍で判明した 「無駄だったもの」まで律儀に復活させる必要はない。

例えば、今まで「重要」とされていた会議の中には、出席者に書類を送付するか、リモートで開催さえすれば問題なく進むものがたくさんあった。

「接客業のマスク禁止」という、よくわからない謎マナーが一瞬で吹き飛んだ。

「仕事を円滑に進めるためには必要不可欠」とされていた飲み会が実施されなくても、社会は円滑に進んだ。
(職場の飲み会に関する記事はこちら↓)


そして何と、職種によっては「出社」でさえも必須ではなくなった。
(テレワークに関する記事はこちら↓)

こんなこと、コロナ禍以前では考えられなかったことだ。

以上のことを踏まえて、「コロナ禍最高だった」をさらに細分化して表現すると、

「コロナが最高だったのではなく、コロナの流行によって
『今まで必須とされていたけれど、実は必須ではなかったもの』
が炙り出され、それを強制されない世の中が最高だった」

ということである。

少なくとも、日々の仕事や身の周りを取り巻くしがらみで疲弊していた僕は、コロナ禍に導入された生活様式によって、間違いなく救われたのだった。

○寄せられた二種類の批判

冒頭のツイートには、たくさんの賛同をいただいたのであるが、否定的な意見もそれなりに多く寄せられた。

否定的な意見としては、主に二種類あった。一つは、

「『大震災最高だな!』と言っているのと同じだぞ!言っていいことと悪いことがある!」

というようなものだった。
これについてはさすがに全然違うし、人聞きが悪いことをいうのはやめてほしい。

大震災と一緒なのは、
「災害」というフワッとしたことしたくくり
だけだろう。

それに、僕はウイルス自体を最高と言ったのではなく、「コロナ『禍』」を指したのである。

「コロナ」と「コロナ禍」は、
「蜂」と「蜂蜜」
くらい違う。

蜂がいなければ蜂蜜は生成されないかもしれないが、蜂蜜を「美味しかった」ということが、蜂そのものを褒めることとイコールにはならないだろう。

それに、

「お前、蜂蜜が好物なのか。蜂に刺された人や蜂蜜アレルギーの人のことも考えろ!」

と怒るのは、かなり的外れだろう。

そもそも、地震には「地震禍」という概念がないので、地震に例える事自体がお門違いだ。
ただ、もしどうしても地震に例えたいのならば、

「仮設住宅最高だった」

になるだろうか。

地震の影響でやむを得ず仮設住宅で生活したところ、実家にいる頃よりもストレスが少なかった。今は実家での生活に戻っているけれど、時々思うんだ。
「避難所最高だったな」
と。

↑これだったらわかる。
(実際、避難所は最高ではありません。ど〜〜しても地震に例えるならいうことで、やむを得ず無理して例えております)


もう一つは、

「大変だった人の気持ちも考えろ!+性格、存在の否定」

という構文のものであった。

性格、存在の否定には
・コミュ障
・チー牛
・○ね
なんかが入る。

いやいや、
「人の気持ちを考えろ」
という趣旨の批判で、次に続く言葉が
“コミュ障”
“チー牛”
“○ね”
はないだろう。人の気持ちを考えてくれ。

さすがにブーメランが額に突き刺さり、アイスラッガーのようになっているのが見える。

「○ね」は論外とするとして、
いきなり接点のない人に対して、「コミュ障」という言葉を投げつけしまう人の方が、コミュニケーションに難があるだろう。

「チー牛」に至っては、元々食べ物の名前である。

「この、九条ネギマヨたこ焼き!」
「お前みたいなやつは、かき氷ブルーハワイ味だ!」

と言われているようなものなので、これはもはやどうでもいい。

○コロナ禍に苦しんだ人たち

もちろん、コロナ禍に大変な思いをした人はたくさんいる。

医療関係者などは、ほとんど休みもなく、働き詰めだったことだろう。
たまの休みも一般人以上に感染対策をしなければならず、心身ともにすり減るばかり。

そんな中、関係のない人は旅行に行って

「いえーい、空いてるから快適だぜぇ」

と言っているのだ。
自分だったら、延髄斬りをかましてやりたくなるだろう。

また、接客・飲食・エンタメ業界など、
「人を集める」
ことが仕事の肝である人達にとっては、正に死活問題だったはずだ。
店をたたんだ人、廃業した人、絶望した人などが数えきれないほどいると思われる。

他にも、学生さんはイベントや交流がほとんどできずに、味気ない青春時代になってしまった。
入院をしている人やその家族は、お見舞いすら許可されず、辛い日々を送ったはずだ。

このような人達は、「コロナ」も「コロナ禍」も、両方最悪だったと思っていることだろう。

だから、僕は現実世界ではなく、SNSで言っているのだ。

「実際に言うと角が立つかもしれないけれど、実際こうだよね」

というようなことを、自分の熱量で、自分の使いたい言葉で発信することこそ、SNSの正しい使い方の一つであると思うのだ。

言葉選びが下手だったり、言葉足らずたったりするかもしれない。

でも、かなり言葉を選んで、

「コロナ禍は最悪だけど、まぁメリットもあるっちゃあるかも・・・」

くらいの感じで言うのだったら、別に言わなくてもいい。

僕が書きたいことを、僕が書きたい言葉で書くために作った、僕のアカウントである。
それは許してほしい。

賛同してもらえたらありがたいし、不快だったらブロックしていただければよい。

自分の考えとは合わない意見も目に入るけれど、その人を見ないようにすることもできる。

それがSNSの良さであると考えている。

○取り戻すべき「日常」とは

そして、僕が一番言いたいことは、
「コロナ自体は今でも怖い」
と思っている自分が、

「コロナ禍最高」

と思ってしまうほど、
今の「日常」は生きづらい
ということだ。

コロナ禍には、

「日常を取り戻す」

と、色々な人がしきりに言っていた。

でも、満員電車が復活し、
『これから葬式を控えた喪主』みたいな顔
で電車に乗っている人(多分自分もそういう表情をしている)を見ると、

「日常ってどうしても取り戻さなくてはいけなかったのか」
「本当に、これがみんなが望んでいた日々なのか」

と思ってしまうのだ。


ご丁寧に、日常の辛かった部分まで取り戻す必要はないだろう。

今は、「コロナに阻まれてできなかったこと」を復活させつつ、「コロナ禍をきっかけで手に入れたもの」はそのまま残していけばいいじゃないか。

そうすればきっと、誰にとっても最高な「日常」を手に入れられるはずなのだ。

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