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対話は「生きた学び」になる。フォルケホイスコーレの学習理論

2019年夏〜2020年春にかけて筆者が滞在したデンマークの市民学校、フォルケホイスコーレ。「フォルケレポート」と称して、筆者が体験したこと、考えたことをテーマごとに章立てたレポートをお届けします。第一回目のテーマは「対話」です。
全章立てはここから!

正解は求めない、自由な語り

フォルケホイスコーレの授業では、いつも「対話の時間」がありました。毎回設けられたトピックに対し、生徒どうしで意見や経験をシェアする時間です。授業冒頭に先生からインプットがあった後に「問い」を与えられ、対話の時間に。ときには先生の講義をすっ飛ばして対話が始まることすらありました。

記憶に強く残っているのは、ジェンダー論のはじめての授業。女性らしさ、男性らしさといった性差について考えた回のことでした。

担当の先生からは、「女性もしくは男性だから不利な状況に立たされた経験はありましたか? 話せる範囲でシェアして、お互いに感じたことを話してみてください」とのお題。私たちは4人でグループをつくって教室を飛び出し、緑が見渡せるおおきな庭で輪になって、ぽつりぽつりと話はじめました。

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対話を進めていくなかで、一人の女の子がキャットコール(路上でのひやかしやセクハラ)の被害に遭った過去を告白してくれました。

「キャットコールに遭遇したら、どうする?」 キャットコールの過去を告白してくれた女の子は、相手に逆上されたら怖いからそのまま無視したと言います。「私もきっとそうするだろうな…力の強さでは勝てないし」と私がぼそりと話すと、もう一人の女の子が「分かる。だけどさ…」と話はじめました。

「私は、相手に不快であることを伝える」そうでないと、他の女の子も同じような被害に遭ってしまうからと。なるほど。するともう一人が様子をみて、すっと手を上げて言います。「でも、そんなことを言ってくる奴にパワーを注ぐ必要なくない?」

しばらくの間お互いの意見を聞き、問いかけ、それぞれの意見を補足し合いました。結局、グループでベストな答えを結論づけることなく、その場は解散となりました。

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私は一人、感銘を受けていました。一人ひとりが自分の倫理観に基づいて意見を持っていること。そして、対話は「正解」のあるゼロサムゲームではないという気づきに。
 
一見、議論は平行線をたどったままに見えるかもしれません。それでも、私の内側では確実に変化が起きていました。私はそれまでキャッチコールに遭遇したことはありませんでしが、もしも現実に起こっていれば、「無視する」の一択だったと思います。しかし、友人たちの話を聞くうちに、他に取りうる行動や考え方の選択肢が生まれたのです。

「相手はなぜそう言ったのか」「それを聞いて、私はなぜこう思うのか」。自分とは違う誰かの考えを取り込み、時間をかけて咀嚼していくことで、新たな自分がつくられていく感覚。

さまざまな考えを持つ人々と対話を重ねることで、自分の思考が深まっていくように感じました。

対話が学習者どうしの学びを促進する

対話の形は少しずつ異なるものの、どのクラスも先生の話を聞く講義の時間と生徒どうしの対話の時間が半々になるように設計されています。

このような授業形式の背景には「Andragogy(アンドラゴジー)」という学習理論の考え方があると、フォルケホイスコーレの先生に教えてもらいました。アンドラゴジーは日本語で「成人教育理論」と訳されます。学習者は「自立した大人」であり、みずから学び、先生や他の学習者と協働する姿勢が問われます。

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授業そのものは学習者のパーソナリティや思考を育て、実践に活かすためのツールとして存在しています。

先の例でいえば、学習者が性差を理由に不快なことをされたり不利な状況に立たされた時に、どうたち振る舞えばいいのか。現実世界でより良く生きるために、ジェンダー論の概念や、友人の経験や意見を役立てていこうという考え方です。机上の空論ではなく、現実に根ざした議論をおこなうために対話が重視されます。

先生は学習者の学びが深めるようサポートし、また学びを促進する役割です。教える人(ティーチャー)ではなく、学びを促す人(ファシリテーター)という言い方がしっくりくるかもしれません。

学習者どうしもまた、相互的に学び合う関係になっています。その橋渡しをするのが「対話」なのです。

この概念は、その反対にあるものを見ると理解しやすいかと思います。

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アンドラゴジーの対の概念は「Pedagogy(ペダゴジー)」になります。指導する先生、そして教えられる学習者という構図を描く「子どものための教育」です。たとえば、私たちの多くが馴染みのある学校教育はこれに当たるので、イメージがつきやすいかもしれません。

日本史を学ぶために日本史を教える教師がいて、日本史の教科書を用いて、学習者は日本史の内容を理解して覚える。

基本的に学習者どうしの相互的な学び合いはなく、個人で学んでいきます。もちろん学習者どうしの学び合いに力を入れている学校もあると思いますが、私が在籍した学校教育では相互的な学びの機会は少なかったように思います。

だからこそ、フォルケホイスコーレで体験した学習者中心の学びはとても新鮮でした。

学習者どうしで学び合う授業が、教師主導の授業よりも優れていると言いたいのではありません。教科によっては、教師から教えてもらう形式が適しているものもあるでしょう。

しかし、私たちが生きる現代は、正解がないことのほうが多いもの。あーでもないこーでもないと語り合いながら、自分なりの納得解を見つけるしかないのです。正解のない不確実な世界では、対話を通した学び合いはとても価値があるのではないかと考えています。

次の記事では、フォルケホイスコーレにおける対話に必要なマインドセットについて書いています。


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