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泥沼からアルカディアの夢を

 私はどこにでもいる普通のおじさん。毎日言われたとおりに働き、特別できるわけでもなければ特別できないわけでもない。平均を絵に描いたようなサラリーマン。
「これ部長から。内容良いから誤字だけ直してって」
 「ああ、ありがとう」
 「いえいえ」
 にこやかに去っていったのは私とは対照的に、いつもみんなの注目を集めてやまない営業課のマドンナ高橋さん。
 美人なだけじゃなく、どんな人にも優しく、仕事もできる。悪い所があってほしいと思わず願ってしますような人。しかも、と言うより当然だが同期の中で一番の出世頭だ、あんな人生が送れたらな。
 「はぁー」
 平凡すぎる自分の人生、優秀過ぎる同期。変わらない日常。冷たい青い空。
いつも通り定時で仕事を終え、行きつけの居酒屋へと向かう。
相変わらずあまり人のいない店内で、とりあえずビールと枝豆を頼み、季節のメニューにぼんやり目を通す。
 菜の花や、筍がメニューに並んでいるのを見て春を感じる。
なんとなくいつも付きっぱなしのテレビを見ると、若い子がインタビューに答えていた。
 『俺は、社会の歯車にはなりたくないんで』
 一昔前に流行ったようなセリフを、最新のファッションで語る。きっと彼には何か夢があるんだろう。
「社会の歯車か、別に私じゃなくても良いんだ、歯車になれりゃ」
運ばれてきたビールを飲み干す。どんな気分でも酒はうまい。
今更特別になろうなんて思わないが、それでもあまりにも平凡な自分に劣等感を抱いてしまう、かといって平凡から抜け出そうと努力するわけでもないが……。
「誰でも一緒なら、変わってもらうのはどうでしょう?」
「はあ?」
がら空きのカウンター席。突然隣に座ったのは胡散臭い笑顔を見せるスーツの男。
「すいません。いきなりお声がけしてしまって、私こういう者です」
渡された名刺には『新世界研究所』と書かれていた。怪しさに思わず眉をひそめる。
「今、怪しいって思われました?」
「はい」
いかにもカルト宗教みたいな名を名乗るやつを信用できるはずがない。    
「そんなはっきり。悲しいです……。」
 「そもそも、いきなり隣に座って話し出す人、絶対詐欺か宗教勧誘でしょ」
 「仰る通りですね、申し訳ありません」
 穏やかな口調で謝ってはいるものの、自分も飲み物を注文し始め、全く退く気配はない。私は一人で酒が飲みたいんだが。
「この名刺名前書いてないんですか?」
 「はい、私たちエージェントに名前はありませんので!」
 とても良い笑顔だが意味は全く分からないし、なおさら怪しい。
 「変な宗教団体とかではありませんので、安心してくださいね」
 「じゃあ、何なんです?」
 「よくぞ聞いてくれました!我々はですね」
 まずい。折角金曜の夜なのにこれは長くなってしまう。いつの間にか男が注文していた二杯目のビールを飲む、酒がまずい。
 「要は、テクノロジーやAIをもっと世の中に浸透させて人間が楽に生きられる世の中を目指してるってことです?」
 「そうです!技術でより良い社会を!そして、その最初の一歩として、実験に協力してほしいのです」
もう、何杯目かも分からないビール、冷めたからあげ。意味の分からない男。
「あなたが最初の一歩を踏み出すことで、世界はより良くなるのです。歴史を変える最初の一歩を踏み出しましょう」 
「私のような普通の人間が、そんな」
「普通だからこそ、選ばれたんです」
「え?」
「私達に協力してくれますね?」
同じところをずっと回るような人生が終わりを告げるような声がした。

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