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村上春樹『一人称単数』を読む

 昨日発売された村上春樹の新作、『一人称単数』を早速読んだ。6年ぶりの作品ということで、あの『騎士団長殺し』から早くも6年、と思うと驚くばかりだが、とにかく村上春樹の作品は、どんなに忙しかろうが読まないわけにはいかない。

 本作には七篇の短編が収められている。どれも、文体といい物語世界といい、「100%村上春樹」という感じのものばかりだった。読んでいて、かすかに過去の作品がかすめることもあった。「石のまくらに」の斬首のイメージは騎士団長を、「ウィズ・ザ・ビートルズ」のサヨコさんの辿った暗い運命は、どことなく『国境の南、太陽の西』のイズミさんを思わせたし、また「嫉妬」という感情は村上春樹のキーになっているような気もする。レコードをめぐるエピソードは『東京奇譚集』、「偶然の旅人」の中に披露されるジャズのレコードをめぐる話を思い出させた。そしてヤクルトスワローズへの変わらぬ愛。さらに何と言っても、「品川猿の告白」である。もちろん『東京奇譚集』に登場する、名前を盗むあの「品川猿」と同じものではなかろうが、ここに出てくる品川猿(ここでは混乱を避けるため、新品川猿と呼ぶ)もまた、愛する女性と結ばれる代わりに名前を盗んで満足する。新品川猿は全部で7人の名前を盗んだというのだが、そこに『東京奇譚集』の松中さんやみずきさんは入っているのだろうか、という、本編と直接関係のないところも気になる。また松中さんは嫉妬の感情ということをみずきさんに問いかけ、その後自殺するのだが、そのあたりもサヨコさんと重なったりもする。そして「品川猿の告白」では、新たに名前を盗まれたらしい女性が登場するのだが、それが新品川猿の次なる犯行であるのか、そのあたりも興味深い。というわけで、村上ワールドを十分に楽しむことができた。

 私がこの作品で一番好きなのは二番めに収められている「クリーム」である。ここには不思議なおじいさんが登場し、

「この世の中、なにかしら価値のあることで、手に入れるのがむずかしうないことなんかひとつもあるかい」

「けどな、時間をかけて手間を掛けて、そのむずかしいしいことを成し遂げたときにな、それがそのまま人生のクリームになるんや」

と言う。そしてフランス語の「クレム・ド・ラ・クレム」という表現を挙げて「とびっきり最良のものという意味や」と説明する。

 恥ずかしながら、私はこの「クレム・ド・ラ・クレム」という表現を聞いたことがなかった。そこで辞書で確認したところ、フランス語の辞書にはこの表現は載っていない。ただ、選り抜き、の意味はあり、例えば« crème de la société »(社交界の選り抜き)とか、« crème des braves »(勇者の中の勇者)などと言うそうだ。そして英語の辞書も見たところ、こちらにはまさにこの表現が出ていて、« My students are all the crème de la crème. »(私の学生は粒ぞろいだ)という例文が紹介されている。何かのはずみで英語に流入し、定着したのだろう。実はこの「クリーム」でも、主人公、「ぼく」は、嫉妬ではないながら、人の黒い感情に呑まれたのではないか、と思わせる展開だったのだが、この老人によってそこからうまく逃れたような気がする。そして、どす黒い感情に巻き込まれる代わりに白いクリームという人生の極意を教わる。そこに何となく安心もしたのだった。


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