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雑談とインタビュー

ライターの仕事はものを書くことだ。けれども、書くのは全体のほんの一部で、実は書く前段階の「準備」にこそ意味があり、時間がかかるものなのだとも言われる。

この準備のことを、ざっくりと括れば取材と呼ぶ。で、取材にもいろんな方法があるのだけど、わたしは特にインタビューが好きみたい。

もっとも、そう感じるようになったのはわりと最近。なにせわたしは、おしゃべりがとんと苦手な人見知り属性なのだ。もっとも大人になるにつれて、それを隠すのがうまくなったので「え、そうは見えないね?」と言われることが増えた。でも、基本的には人見知りで会話下手なのだ。

ごく親しい家族や友人相手ならいくらだって話していられる反面、あまり親しくない間柄や喋る必要性が薄い場面では、めっきり口数が少なくなる。

だから、インタビューに対しても苦手意識が大きかった。今も得意かと言われればそんなことはまったくなく、いつも緊張するし、いつも失敗するし、いつも反省する。でもやっぱり、なぜだかどうして好きみたい。

それが高じて、ついに自分企画のインタビューを始めることにした。経緯や思いなどについては、こちらを参照してもらえると嬉しいです。

(仮称)身近な人にインタビュー企画、始動します

さて、おしゃべりが苦手なわたしにとって、雑談とインタビューはどう違うんだろう。少し掘り下げて考えてみる。

雑談の場合、常にわたしの心にあるのは「こんなことを聞いて迷惑に思われないかな」「わたしの話に興味なんかないんじゃないか?」といった考え。

基本的には自己肯定感が低めなので、わたしが喋ることで相手に時間を浪費させては申し訳ないという思いが、心の奥のどこかしらにある。「聞かせてください」と請うことは、相手にとって煩わしいことではないか。わたしの自分語りなど、相手にとっては何のメリットもないのではないか……と。

だから、よほど相手が自分に対して興味を持ってくれていると確信を持てる場合や、そこまでいかなくとも優しい気持ちで会話をしてくれる確信がないと、なかなか聞けないし、話せない。

けれどインタビューの場合、「わたしはこんなことに興味があるので、それについてあなたに聞きますね」という事前の約束ができている。だから、安心して聞ける。その場でわたしが発言することは何らおかしなことではなく、相手にとっても(想定外な)時間の浪費ではない、と確信できるからだ。

要は、お腹の底から、思う存分安心して会話ができる――ということかもしれない。ただの雑談との違いはそこかなあ、と。

わたしはきっと、深い話がしたいのだ。軽い話は線引が難しい。踏み込みすぎると相手に負担をかけるし、相手がどこまでこちら側へ踏み込みたいと考えているのかがわからないと、話のしようがない。その境界線を判断するのが、わたしにはとても難しいのだと思う。

インタビューという、少しばかり形式張ったフィルターをかけることで、かえって自由に話ができる。なんだか逆説的で、とてもおかしな話だけれど、ね。

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