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妻だけど、母だけど、恋をしました。

ちょっと変な人。

彼の第一印象は、それだった。
ちょっと空気を読めない、というのかな。あえて読んでいないのか、それとも天然なのか。

それをうかがい知ることができるほど、わたしと彼の距離は近くなかった。精神的にも、物質的にも。


***


どこにだっている、ありふれている主婦であり、母。それがわたしだ。

夫を送り出し、子どもを送り出し、掃除、洗濯、夕飯の仕込み。そのルーティンワークは、これまでも、これからも、ずっと続いてきたし、続いていく。

わたしの人生はルーティンワークだ。


…と愚痴るわたしを見て、友人のマナミはいつも「幸せじゃない」と言う。 その度に、わたしは曖昧に笑う。

たぶんいま、ヘンな顔してるよね。と思いながら。

彼女には子どもがいない。夫と気ままな二人暮らしを続けて、もう15年になる。

「楽しいよ。若い頃はケンカも多かったけど、最近はぜんぜん。一緒においしいもの食べたり、旅行行ったり。好きなものが一緒だからね」

そう朗らかに笑う。

その笑顔は学生の頃と変わらない美しさだし、会う度にデザインが変わるつやつやのネイルは、枯れた乙女心をくすぐる。

わたしはといえば、いつ買ったのかもう覚えていないジーンズ、すり減ったぺたんこパンプス、飾り気のない指先の三拍子。

誰が見たって「生活に疲れたおばちゃん」だ。見た目の幸福度は比べ物にならないだろう。 

けれど彼女はわたしの愚痴を聞く度に目を細めて「幸せだよね」と言う。

かつて、マナミが子どもを欲しがっていたのは知っている。いくらお金があっても、おいしいものを食べても旅行へ行っても、たぶん満たされない何かを抱えているのだと、理解しているつもりではいる。

そんな彼女に向かって「あなたの方がよっぽど」とは、さすがに言えない。


けれどわたしは、マナミがうらやましい。

自由に使えるお金、夫からの惜しみない愛情、気が向けばどこへだって飛んでいける身軽さ……。

わたしには何もない。そしてこれから先も、もう二度と手に入らないものだ。


夫とわたしの間にはもうだいぶ長い間、壁がある。

不仲というほどではない、大きな問題もない。けれど夫はわたしに無関心であったし、そんな夫にわたしは失望していた。

お互いに、お互いの心には踏み込まない。家庭に波風さえ立てなければ、お好きにどうぞ、ご勝手に。

そういう、阿吽の呼吸みたいなものがあった。

さみしかった?どうだろう。それすらもう、わからない。

「さみしい」と言って許されるほど、わたしはもう若くも、魅力的でもない気がしていた。


***


オンラインゲーム、というものがあることを知ったのは、何がきっかけだったか。もう思い出せないほど些細なことであったことはたしかだ。

ゲームと呼ばれるものは、これまでの人生で数えるほどしかしたことがなかった。なのにもかかわらず始めてみようと思ったのは、ほんの気まぐれ。

ヒマを持て余した主婦の、ちょっとした戯れだった。

ゲームの世界。現実には存在しない場所。

その仮想空間の中で動くのは、ゲーム内の登場人物というバーチャルなキャラクター。けれど、それを操作するのは人間だ。

同じ空の下、どこかに必ず存在する誰か。わたしと同じように息を吸い、思い、悩み……恋をする、誰か。すごく不思議な感覚だった。


「そこ」で、彼と出会った。


彼は他人との距離のとり方がうまかったのか、ヘタだったのか、よくわからない。とにかく少し変わっていて、そのせいで人から好かれたり、嫌われたりしていた。

他人のテリトリーに入るのが苦手なわたしにとっては、彼のズカズカ踏み込んでくるやり方はかえって心地よかった。

たぶん「同じように踏み込んでもいい」そう思わせてくれる気安さが、そのときのわたしにぴったりハマったからだろう。


気づけば、いろいろ話をするようになった。悩みを聞いたり、聞いてもらったり。

「こんなことがしたい」と言えば応援してくれたし、「こういうやり方はどう?」とアドバイスもくれた。

そんな人間くさいやり取りが、ものすごくうれしかった。

すぐ隣にいるのにわかり合えない夫なんかよりも、ずっとずっとリアル。現実なのかすら曖昧な彼と過ごす時間は、びっくりするほど濃密で、甘くて、ほんの少しほろ苦い。

もうずっと、ずっと忘れていた感覚。この気持ちを、なんと呼ぶのだったか――

「あ」

(恋?)

「うそ」


どこにだっている、ありふれている主婦であり、母 。そんなわたしを、彼は女に変えた。


※その2に続くかもしれない…→続きました。その2はコチラ。

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