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【小説】絡まる糸

――いつもと変わらない、月曜の朝だ。

清々しいほどに広がった青空と、青々と茂る街路樹。この爽やかな情景と自分はなんて不釣り合いなんだろうと、滝沢は苦笑まじりに歩を進めていた。

自宅から最寄り駅までは徒歩10分。規則正しい生活を送る滝沢は、毎朝8時40分頃にこの道を通って駅へ向かい、電車に揺られて会社に行く。この時間になるとほとんどの学校では授業が始まっているため、学生の通学時間と通勤時間がかぶることがない。このひとときの静けさが、滝沢のお気に入りだった。

――しかし、その朝は違っていた。

(女の子……?)

いつもと変わらない時間に歩くいつもの道に、いつもは見かけない姿を見つけた。道の端にうずくまっているその人物は、おそらく制服を着た女の子だ。

(こんな時間に、高校生? 具合でも悪いのかな)

きょろきょろと辺りを見回しても、周囲に学生は見当たらない。当然だろう。高校生が学校へ向かうにしては、やや遅い時間だ。

何かにつけて問題が大事化されがちなこのご時世、くたびれたサラリーマン風の男(=俺)が、女子高生に声をかけるのは躊躇われた。……が、生来お人好しの気質がある男だ。少女の身に何かあったのではないかという気持ちが勝り、恐る恐る声をかけてみることにした。

「あの……大丈夫、ですか?」

少女は体操座りをしながらひざの間に顔を埋めていたが、声をかけるとぴくり、と体が揺れる。

(意識はあるみたいだな)

爽やかな朝にうずくまる女子高生。その普通じゃない組み合わせに、最悪の事態を想像しなかったかといえば嘘になる。少女が反応を示したことに、ひとまずはほっと胸を撫で下ろす。

とはいえ、相変わらず顔を上げない少女を怯えさせてはいけないと、滝沢はできるだけ穏やかに、且つ余裕のある大人の声を出そうと努める。

「具合でも悪いんですか?」

もう一度声をかけると、目の前の少女がゆらりと顔を上げた。黒く長い髪がさらりと横に流れ、その輪郭がはっきりする。

陶器のように白く透き通った肌に、黒目がちの大きな瞳。少し目尻の上がったその目は、強い意志を秘めているようにも見えるし、何も考えを持たずに揺らめいているだけのようにも見える。頬に赤みはほとんどないが、それでいてどこか具合が悪そうな様子もない。やや浮世離れしている、なんとも不思議な雰囲気を纏った少女だった。

ただ一つ、はっきりと言えるのが――

(綺麗な子だな)

その美しい風貌に、思わず喉が鳴る。こんな子に自分なんかが声をかけたら、思いきり不審者じゃないか。滝沢は、数秒前の自分の行いを全力で後悔し始めていた。しかしそんな狼狽えっぷりをよそに、少女はその大きな瞳でじっと滝沢を見つめてくる。

何か言わなければ、と考えを巡らすが気の利いた言葉は浮かばず、咄嗟に出たのはみっともなく掠れた声だった。

「ええと……いきなり声をかけてごめんなさい。体調でも悪いのかと思ったんだけど、大丈夫ですか?」

あ……。

不意に、彼女の唇がうっすら開き、吐息にも似た声が漏れた。けれどその微かな変化はすぐに消え、代わりにこくんと、小さな頷きだけが返ってきた。

頷いたまま、少女はそのままの姿勢で地面を見つめている。――正確には、見つめているのだろう。下を向いたタイミングでさらりと流れた長い髪が顔を覆い隠し、その表情を窺うことはできない。

(これ以上の詮索は不要だな)

滝沢は、こちらを見ようともしない彼女に人の良さそうな笑みを向ける。

「それなら良かった。それじゃ、俺は行くね」

返事は聞こえない。滝沢は、今度こそ駅へ向かって歩き始めた。いつもより少し遅くなってしまったが、出社には問題のない時間だ。

歩きながら、出会ったばかりの不思議な少女のことを考えていた。大きな瞳と艷やかな黒髪。小さく吐息を漏らした唇は薄く、どこか儚さを帯びた美少女だった。

(見たことのない制服だったな。どこの学校だろう)

しばらく歩いてから振り返ると、少女はまだ、道の真ん中に立ち尽くしていた。

*  *  *

「あれ、君は……」

声に出してから、あっと口を塞ぐ。が、時すでに遅く、数メートル先に佇んでいた少女がゆらりと振り返る。

数日前に会った、あの少女だ。出会ったときと同じ制服姿、同じ表情で、滝沢をじっと見つめている。

(黙って通り過ぎればよかったな)

なぜ思わず声をかけてしまったのか。自身の迂闊な行動に内心で戸惑いながらも、目が合ったので話さないわけにもいかない。滝沢は、慎重に言葉を選びながら会話を始める。

「この間はどうも。あの後、学校間に合った?」

「……」

相変わらず少女は何も語らず、ただ滝沢の顔をじっと見ている。なんとなく居心地の悪さを感じた滝沢は、ふいと視線を逸らして考えを巡らせる。

(なんだか、変わった子だな。最近の女子高生って、こんな感じなのか?)

そこまで考えて、はたと、ある考えにたどり着いた。

(もしかして、見知らぬ人とは話をするなって学校で言われてるのかもしれない! そりゃそうだよな、怪しいもん。俺……)

そうとわかれば、これ以上不審者扱いされてはたまらない。あいさつもそこそこにその場を立ち去ろうとする滝沢に、少女が「待って」と制した。

初めて少女からかけられた言葉。それは思いのほか、強い口調だった。足が地面に縫い止められたように動かない。振り返ると、少女がまっすぐに滝沢を見据えている。

「この先の道へは、行かない方がいい」

「えっ?」

滝沢の家に帰るには、この場所からまっすぐ行くのが一番の近道だ。そして滝沢は、当然毎日そこを通って行き来している。ここを通らないとなるとかなりの遠回りになり、さらに10分ほど時間が余計にかかってしまう。

しかし少女は、訝しむ滝沢の様子に気づいてか否か、そのまま言葉を続ける。

「そこを左折して、ぐるっと回って家に帰りなさい。まっすぐ行ってはダメ」

滝沢は、その強い視線に射抜かれたようにしばし身動きが取れなかった。理由はわからない。わからないが、この言葉に逆らってはいけない――そんな、根拠のない確信があった。

「わかった。なんだかよくわからないけど、君の言うとおりにするよ」

少女は少しだけ表情を和らげ、こくんと頷いた。

「それじゃ、俺は行くね――あ、ちょっと待って」

少女の肩に、きらりと光るものを見つけた。蜘蛛の巣だ。滝沢は、丁寧な手付きでそれを取ってあげる。

「肩に蜘蛛の巣がついてた。はい、もう大丈夫だよ」

はっとしたように目を見開いた少女は、そのまま顔を伏せ、また小さく頷いた。

(やっぱり変わった子だな)

滝沢は、少女の助言通りにいつもとは違う道を通って帰ることにした。帰りしなに寄ったコンビニで、コーラと雑誌を買う。買う予定のないものだったが、たまにはいいかと前向きに考えてみる。

アパートに着く頃には、かなり強い風が吹いていた。台風が来ているらしいと予報で言っていたので、その影響だろう。木々はバサバサと大きく揺れ、そこら中のものがガタガタと大きな音を立てている。滝沢が住む、築数十年のアパートも全体がギシギシと鳴っており、無事に朝を迎えられるのか不安になるほどだった。

(あの子、ちゃんと家に帰れたかな?)

会うのは今日で2度目だが、やはり変わった子だと思う。そういえば鞄も持っていないし、朝から雨予報だったというのに傘も持っていなかった。そしてあの発言――

「“ぐるっと回って家に帰りなさい”って……俺の方が年上なんだけどなあ」

あれはなんだったんだろう。思い出すと、なんとも滑稽な光景だ。今頃あの子は、おとなしく言うことを聞いた自分のことを笑っているのかもしれない。もしかすると、後ろ姿を動画に撮られて、ネットにアップされてたりして……。

あり得なくもない想像に、口の端に苦笑が浮かぶ。とはいえ、あの有無を言わせない威圧感は、思い出しただけでも異質だった。

「まあ、いっか。なんでも……」

もう会うこともないだろうし。――などと考えているうちに、睡魔がやってくる。滝沢はペットボトルに少しだけ残っていたコーラを飲み干すと、もそもそと布団に潜り込む。やがて窓の外のゴウゴウという風の音が遠くなるのを聞きながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。

*  *  *

翌朝は、昨晩の荒天が嘘のように、雲一つない青空が広がっていた。

雨漏りもしていない、窓も割れていない、壁も抜けていない。築数十年のおんぼろアパートも、なんとか無事に夜を越せたようだ。家賃が安いのは去ることながら、ここから会社へ行く道のりがわりと気に入っている滝沢は、ほっと胸をなでおろした。

いつものようにインスタントのコーヒーを入れ、それを飲みながら新聞を読む。同僚は皆「今どき、新聞なんか電子だろ」と口を揃えるが、滝沢はこうして紙面をばさりと広げて、のんびりとコーヒーをすする朝が好きだった。

「さて、と」

裏面のテレビ欄までしっかりとチェックし終えると、ちょうど時計の針は8時半をさしている。カップを流しに片付け、鞄を掴むと、いつものように会社へ向かう。昨日までと、何一つ変わらない朝だった。

「あれ……」

滝沢が異変に気付いたのは、自宅を出て少し歩いてから。毎朝通る通勤路の真ん中に赤い三角コーンが置かれており、周囲にはちょっとした人だかりができている。

人ごみの中心をのぞくと、ひしゃげた看板が落ちている。大きさにして、縦1メートルはあるだろうか。ものすごい速さでどこからか飛んできて激突したのか、民家の石塀が崩れて見るも無残な状況だった。

「とんでもねぇよなあ」

隣に立っていた初老の男性が、ひとりごとみたいに呟く。

「昨夜の風で飛ばされてきたみたいだな。夕方の6時過ぎくらいだったらしいが、通行人がいなかったのは不幸中の幸いだったな」

ーー昨日の6時過ぎだって?

滝沢は、つま先からすうっと冷えていくような感覚に襲われていた。

(ちょうど俺が通ろうとしていた時間じゃないか……)

あの少女に言われて、昨日だけは違う道で帰ることにした。もし忠告を無視してあのままいつもの道で帰っていたら、もしかしてーー

すべては、推測の域を出ない。まさか彼女に未来を見る力があるだなんて、そんな小説みたいなことがあるものか。そう思おうとしても、少女の何かを見透かしたような瞳が浮かんで、仕方がなかった。

*  *  *

その日の夕方、また少女の姿を見かけた滝沢は、今度こそ躊躇わずに声をかけた。

「君! ああ、会えて良かった。昨日、君が忠告してくれなかったら、俺はもしかしたら、飛んできた看板に当たって大怪我をしてたかもしれない。偶然とはいえ、助かったよ。ありがとう」

心からの感謝だった。にっこりと微笑んだ滝沢をちらりと見た少女は、「別に」と小さく答えたきり、視線を逸らしてしまう。

彼女のこうした態度にも、そろそろ慣れてきた。謎の多い子ではあるけれど、悪い子ではないのだろう。なんの根拠もないが、そんな気がしていた。

そこでふと、少女の髪の毛が夕日を受けて、きらきらと光っているのに気づいた。

「あ……」

滝沢は少女の目線まで屈むと、「ちょっとごめんね」と囁きながら、少女の髪に手を伸ばす。相変わらず一言も喋らない少女だったが、小さく息を呑み、体をかたくしている空気が伝わってくる。

「……っと。はい、取れた。髪に蜘蛛の巣ついてたよ」

ふふっ。なにかを思い出したように、滝沢が微笑む。

「昨日も蜘蛛の巣つけてたよね? 君、いつも何して遊んでるの」

その瞬間ぱちりと合った視線は思いのほか近くて、滝沢は自分から近づいておきながら照れてしまう。ーーが、それよりも、少女のその顔に釘付けになった。

生気のなかった白い頬が上気し、瞳が潤んでいる。やけに艶かしいその表情に、思わず吸い寄せられそうになる。

「ーー今夜、」

か細く、鈴のように可憐な声が、薄い唇から漏れる。その声に弾かれるようにして、滝沢は少女から距離を取った。――あぶない。今、俺は何をしようとしていた?

目の前の少女は、そんな滝沢の邪な心を知ってか知らずか、濁りのない瞳でじっと見つめて、口を開いた。

「今夜、少しだけ窓を開けておいて」

*  *  *

不意に、部屋の中を冷たい風が通り抜ける。ちらりと窓の方に目をやると、カーテンがふわふわと揺れていた。

(夜になって、風が強くなってきたな)

滝沢は、夕方少女に言われた通りに、ほんの少しだけ部屋の窓を開けておいた。どんな意味があるのかは皆目見当もつかなかったが、なぜだか言う通りにしなければならない――そんな気にさせる、不思議な子だった。

揺れるカーテンのすぐ下で、何かがちろちろと動くのが見える。目を凝らすとそれは、小さな蜘蛛だった。

「夜の蜘蛛は縁起が悪いっていうけど……殺しちゃかわいそうだしな」

滝沢は蜘蛛を潰さないようにそっとてのひらに乗せ、そのまま窓の外に出してやった。その瞬間、つい先日も似たようなことがあったと思い出す。

出勤前に部屋の中でたまたま見つけた蜘蛛を拾って、外に逃がしてやったのだ。「朝の蜘蛛は神の使いだから、幸せを運んできてくださる。だから殺しちゃいけないよお」子どもの頃に聞いた、そんな祖母の話が記憶の断片として残っていたせいかもしれない。

「どこかに大きな蜘蛛の巣でも張ってるのかな? まあ、これだけぼろいアパートだからなあ。蜘蛛の巣の一つや二つあっても、なんら不思議じゃないけど――」

蜘蛛の巣を探して窓の外を見回した滝沢は、視界に飛び込んできた信じられない光景に目を見張った。いつからそこにいたのか、滝沢の部屋のすぐ外にあの制服の少女が立っている。

「君! こんな時間に、どうしたの?」

既に夜の11時を回っていた。制服姿の高校生がうろついていい時間帯じゃないことは、とうの昔に高校を卒業した滝沢にもわかる。少女はその質問には答えなかったが、よく通る凛とした声で語り始めた。

「お別れを言いにきた。あなたに会うのは、これが最後だから」

「……どういうこと?」

「あなたは先日、蜘蛛を逃してやっただろう。あれは、私だ」

これはまた、ずいぶんと摩訶不思議な話が始まったぞ。そうは思ったものの、少女が嘘をついているようにも見えない。滝沢は黙って、話の先を促す。

「あの蜘蛛が、君だって?」

「命を救ってもらった私は、あなたに会うためにこうして人の体を得た。けれどもう、時間がない」

少女が一瞬、目を伏せる。

「すぐに、ここから引っ越した方がいい。ひと月後、ここに強盗が入る。鉢合わせたあなたは強盗に刺され、死ぬ」

――死ぬ。濁りのない瞳でそう告げられ、滝沢は何も言えなかった。“そんな馬鹿な”そのひと言が、どうしても出てこない。からかっているようには見えなかったし、現に彼女は、不思議な予知能力で自分を危険から救ってくれたのだから。

「わ、わかった。君の話を信じるよ。でもどうして、そんなことを教えてくれるの? それに、時間がないってどういうことだい?」

「恩人であるあなたに危険を知らせるために、私は人の身を得た。しかし蜘蛛である私が、これ以上人の姿を保ち続けることはできない。私は今夜、消える」

ーー消える。そう言った少女に呼応するかの如く、その刹那強い風が吹いた。風はそのあたりの落ち葉や砂を巻き込みながら、少女を取り囲むように勢いを増している。まるでそのまま、少女が連れ去られてしまいそうな感覚に襲われた滝沢は、思わず腕を伸ばしていた。

「待って! 消えるって、どういうことだよ!」

すると少しだけ風の勢いが弱まり、中心に立っている少女がゆっくりと微笑むのが見えた。それは今まで見たこともないほど穏やかで、涙が出そうになるほど美しい微笑みだった。

少女は伸ばされた滝沢の手にそっと触れ、

「ありがとう」

指先をかすめるように、口付けた。

「どうか、死なないで」

そう言い終えるが否や、少女の体がまばゆい光に包まれた。滝沢はあまりの眩しさに、思わず目を閉じる。

そしてーー次の瞬間目を開けると、もう少女の姿はどこにもなかった。

風はやみ、あたりを再び静けさと暗闇が包んでいる。まるでさっきまでの出来事が夢だったかのように、何もなかった。ただ、一つを除いては。

滝沢は、今の今まで少女に触れていたはずの指先をじっと見つめる。一本の蜘蛛の巣が絡みついた指先は月明かりを受けて、てらてらと光っていた。

*  *  *

謎の少女が消えた、あの日からひと月。

既に新居での生活を始めていた滝沢の耳に、とあるニュースが飛び込んできた。それは、以前自分が住んでいたアパートに強盗が侵入し、逮捕されたというニュースだった。強盗は包丁を持っていたものの、忍び込んだ部屋は留守だったため怪我人はなし。たまたま巡回中の警察官に見つかり、取り押さえられたとのことだった。

ニュースを聞き終えた滝沢はテレビを消し、窓の外を見上げる。そこには、いつか少女と出会った日と同じ、澄みきった青空が広がっていた。

「――ありがとう」

コーヒーカップを流しに片付け、鞄を持ってドアを出る。いつもと同じ時間、同じ道。嫌になるくらいに退屈で平凡で、だからこそ幸せな一日がまた始まる。

今回のお題【蜘蛛の巣】と【制服】

#脳トレマガジン #創作 #小説

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