〈「生きづらさ」をどう受け入れるか?〉
こんばんは。
僕は愛着障害→社交不安障害→適応障害の3コンボをかましており、現在3度目の休職をしている謳歌(おうか)と申します。
今日は、最近僕がずっと考えているテーマについて少し書いてみたいと思います。
正直考えがまとまっていないので、取り留めの無い文章になってしまうと思いますが、
良ければぜひ、読んでいただけるとうれしいです。
〈「生きづらさ」を受け入れる難しさ〉
僕の生きづらさ、すなわち愛着障害とは、「周囲の大人から弱さを押し付けられてきた子ども」に生じる病だと考えています。
自我の形成もままならない時期に、大人の都合に振り回される。
子どもは愛情を受けたいし、「可哀想だ」という同情の思いもあり、必死に期待に応えようとする。
そんな大人にとって「いい子」になってきた僕は今、人とうまくつながることができずに日々、苦しんでいます。
愛着障害という病気がもたらす問題とは、大きく2つあると考えます。
① 際限ない安心感の欠如(愛情欲求)
② 人間に対する基本的信頼感の欠如
本来は幼児期に満たされるはずだったこれら2つを、僕らは享受できなかった。
だから、日常生活に何らかの弊害が生じるのは、「人間として当たり前の反応」だと思います。
そしてこの苦しみは、「自分ではどうにもできなかった」要因によるものです。
悔やんでも悔やんでも、憎んでも憎んでも、解消されることはありません。
対峙すればするほど、どうしようもできない問題だと思います。
ではこの「生きづらさ」に、僕たちはどう向き合っていけばいいのでしょうか。
「自分ではコントロールできなかった要因だし、過去の事象だから変えられない。ウジウジ言ってても仕方ない」なんていうのは重々承知です。
でもそんな言葉を吐けるのは、苦しみの渦中にいない方々でしょう。
この憎しみ、やるせなさ、苦しさ。清算されないこの思いを、僕たちは一体どうすれば良いのか。
一度落ち着いて、視点を変えてみます。
逆に、愛情を受けられなかった、もしくは歪んだ愛情を受けてきた僕らが、ここまで生きているというのは、もしかしたらすごいことなのではないでしょうか。
愛着障害者は「孤独」です。
人とうまく交流できない、愛情を正しく受け止められない、人を愛せない。
それも、自分のせいではない要因で。
両親などを憎むのも、仕方がないです。本当は憎みたくなんて無いのに。
でも、そんな誰よりも「孤独」な僕たちが、ここまで生きている。
それはもしかしたら、すごいことなのかもしれません。
〈現時点での、僕の向き合い方〉
僕は、過去を許すしかないのだと考えています。
それは彼、彼女らの為ではなく、自分の為に、です。
でも正直、今すぐは絶対に許せない。それが本心です。
でも、少なくとももう、彼、彼女らに人生を捧げるのはやめようと考えています。
別に親孝行しない、という意味ではありません。
自分の人生を捧げない、という意味です。
もう彼、彼女らの期待に応えなくても、認められなくても良いと思います。
自分の人生を左右するのは、最終的に自分ですから。
いつか、両親に何かしてあげたいと自発的に思うことができたら。
それは許すことができた、ということなのだと思います。
今はそう思えません。だから、許せていないのだと思います。
そしてもう1点。
家族とは、「自分で選ぶことができる存在」だと、最近は考えています。
家族とは。
例えばその人が風邪を引いた時に、「助けたい」と思う人。
例えばその人が苦しんでいるときに「そばにいたい」と思う人。
そんな存在のことを指すのだと、僕は考えます。
過去、家族からは愛されなかったかもしれない。
愛されたかったから、良い子になってきたけど、
もうそれは必要は無い。捧げなくて良い。
自分で家族を見つける。それしかないんじゃないでしょうか。
過去の家族に縛られない方法は。
取り留めのない文章になってしまいました💦
自分の人生の中で、少しずつ言語化を進めていくテーマだなと思っています。
もう少し考えがまとまったら、また書くかもしれません。
ではでは〜🎶
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