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【後編】アズディン・アライア、クチュリエ&コレクショヌール(Azzedine Alaïa, Couturier Collectionneur):パリのガリエラ美術館で開催、アライアが生涯をかけて集めたドレスコレクション

【前編】に引き続き、後編でもアライアが集めた数々のドレスたちを見ていくこととしよう。

参考:





1. カロ姉妹、マリアーノ・フォルチュニ、Myrbor、アルフレッド・レニフ(Callot Sœurs, Mariano Fortuni, Myrbor, Alfred Lenief)

20世紀初頭に独自の道を切り開いたクチュリエたちは、アートとファッションの融合を謳歌した。

アズディン・アライアは、そんな時代の変化が反映されたクチュリエたちのユニークな作品も好んだのであり、ここでは次の4人のデザイナーたちの作品が展示されている。

カロ姉妹(Callot Sœurs)−マリー・ジェルベール(Marie Gerber; 1857-1927)、マルト・ベルトラン(Marthe Bertrand)、レジーナ・テニスン=シャントレル(Regin Tennyson-Chantrell)、ジョゼフィーヌ・クリモン(Joséphine Crimont)− は、画家とレース職人の娘として、レース、トリミング、古い布を好み、また1910年代にはオリエンタリズムの影響を受けた作品を手がけた。

マドレーヌ・ヴィオネはカロ姉妹のパリにあるメゾンのお針子長として働き、ヴィオネは自分のクチュリエとしての名声はカロ姉妹たちのおかげであったと述べている。

20世紀初頭のファッションを語る上でマリアーノ・フォルチュニ(Mariano Fortuny;1871-1949)を忘れてはいけないであろう。

舞台照明や染色、写真など幅広い分野に精通したフォルチュニは、洗練された染料やプリントを巧みに使い、デルフォスのプリーツドレス、クノッソスショール、そしてオリエンタルな雰囲気のコートなどで顧客を魅了した。


またマリー・カットーリ(Marie Cuttoli;1879 1973)は1922年、パリにギャラリー兼デザインハウスMyrborを開き、そこでは美術家ナタリア・セルゲーエヴナ・ゴンチャロワ(Natalia Sergeevna Goncharova;1881-1962)が製作したドレスも扱っていた。

最後に今でもアンティークショップでファッションイラストを目にすることができるアルフレッド・レニフ(Alfred Lenief;1890-?)の作品は、ポール・ポワレの流れを組むものである。

伸びやかで完璧なラインの探求に取り憑かれていたレニフは、優れた色彩感覚を持ち、洗練された希少な生地を扱った。



2. ジャンヌ・パキャン、ジェニー、ブエ姉妹(Jeanne Paquin, Jenny and Boué Sœurs)

次のブースでも19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した3人のクチュリエの作品が並ぶ。

それにしても100年以上も前のドレスがこれだけ色鮮やか、かつ綺麗な状態で残っているなんて、アライアが本当に服を愛して保管していたことが分かる。

まず一人目は、1891年にパリでファッションハウスを設立したジャンヌ・パキャン(Jeanne Paquin;1869-1936)。

非凡な商才を持つ彼女は、世界中に多くの支店を開き、1936年にはアナ・デ・ポンボ(Ana de Pombo)がそのファッションハウスを引き継いだ。

アライアは、ジャンヌ・パキャンが手がけた絶妙なバランスとラインを保つジャケットを愛し収集した。

(左 Paquin, Robe du soir, Haute couture, automne-hiver 1937-1938/ 右 Jenny, Robe du soir, Haute couture, vers 1930)

またジャンヌ・サチェルドーテ、通称ジェニー(Jeanne Sacerdote, aka Jenny;1872-1962)は、パキャンの元で修行を積み、1909年に自身のファッションハウスを開いた。

彼女は、パリの著名人を顧客に迎え、快適かつ先進的なモチーフを取り入れた昼用の服やスポーツウェアから麗しい夜会用のドレスまで幅広く製作した。

アライアは、今は忘れ去られてしまっているが、ファッションの歴史において重大な功績を残したクチュリエの作品も隈なくチェックした。

その一つが、ブエ姉妹(Boué Sœurs)として知られる、1899年にファッションファウスを設立した、シルヴィ・モンテギュ(Sylvie Montégut (1880- ?)とジャンヌ・デトレイユ男爵夫人(the Baroness Jeanne d'Etreillis;1881-?)であろう。

(右 Paquin, Manteau du soir, Haute couture, vers 1925)
(Boué Sœurs, Robe, modèle 《Lamballe》Haute couture, 1923-1925)

ブエ姉妹のファッションハウスは、1935年に閉鎖されたが、レース、カラフルなリボン、刺繍、金または銀の生地に飾られたトリミングなど、ジャンヌ・ランバンのスタイルにも通じる比類なき煌びやかさと精巧さで人々を魅了した。


3. ジャンヌ・ランバン(Jeanne Lanvin)

1889年、パリで帽子店を開いたジャンヌ・ランバン(Jeanne Lanvin;1867-1946)。

その後、ジャンヌが娘のために作ったドレスが評判となり、親子服やレディースファッションのブランドへとして高い評価を得るようになった。

(右 Jeanne Lanvin, Robe, modèle 《Sarah》, Demi-saison, 1936)
(Jeanne Lanvin, Robe du soir, Haute couture, vers 1935)


またトップステッチや刺繍は、ジャンヌ・ランバンのデザインを特徴づける繊細なもので、洗練された生地と控えめな色彩を特徴とした。

1910年代から1920年代にかけてジャンヌ・ランヴァンは、当時の縦長のドレスとは対照的な、18世紀のパニエドレスを彷彿とさせる「ローブ・ド・スタイル」(robe de style)を考案した。


(Jeanne Lanvin, Robe du soir, modèle 《Bouclier》, Haute couture, 1934)

さらに1930年代には、黒とアイボリーのロング・イブニング・ドレスの堂々としたカッティングで、同時代の女性たちを圧倒したほか、ランバンはメンズウェアも展開するようになっていた。

ジャンヌ・ランバンを敬愛するアライアは、彼女のデザインを数百着所有していた。

(Jeanne Lanvin, Manteau, Haute couture, printemps-été 1939/ Jeanme Lanvin, Manteau du soir, modèle 《Lohengrin》, Haute couture printemps-été 1931)

またガレリア美術館では、2022年春から初夏にかけて、ランバンの一時代を築いたデザイナーの故アルベール・エルバス(Alber Elbaz;1961-2021)にオマージュを捧げた特別展『Love Brings Love, Le Défilé Hommage à Alber Elbaz』(ラブ・ブリングス・ラブ)が開催された。

ここではアルベール・エルバスを偲ぶ世界中のデザイナーたちがこの展示のために作品を提供しており、その内容が気になる方はレポートを参照いただきたい。



4. オーガスタ・ベルナール、リュシル・マンガン、メインボッチャー、モリノー、ニナ・リッチ、フィリップ・エ・ガストン、ラファエル(Augustabernard, Lucile Manguin, Mainbocher, Molyneux, Nina Ricci, Philippe et Gaston, Raphaël)

こちらのブースでも20世紀前半のパリで活躍した人々の作品が並ぶ。

その中には重要な功績を残したにもかかわらず、大きなメゾンのデザイナーに比べたら知名度の低いクチュリエもおり、改めてアライアのファッションデザイナーに対する愛と関心の深さを伺うことができる。

まずビアリッツ出身のオーガスタ・ベルナール(Augusta Bernard;1886-1950)は、1923年に自身の名を冠したメゾンを開き、ネオクラシカルなバイアスカットの豪華なドレスをデザインした。

彼女のキャリアは短かったが、アズディン・アライア財団は彼女の技術の素晴らしさを反映するイブニングドレスを数点所蔵している。

次にリュシル・マンガン(Lucile Manguin;1905-1990)は、画家アンリ・マンガン(Henri Manguin;1874-1949)の娘として芸術家に囲まれて育ち、ポール・ポワレは彼女にファッション業界を目指すよう勧めた。

マンガンは、ボリュームを出した作品やルーズフィットの作品で評判を読んだが、1956年に活動を停止した。

メイン・ルソー・ボシェ、通称メインボッチャー(Main Rousseau Bocher, aka Mainbocher;1891-1976)は、ファッション・イラストレーターとして活躍し、1920年代にはフランス版『ヴォーグ』の編集長に就任。

さらに1929年、アメリカ人としては初めて、パリにメゾンをオープンしt。

彼はメンズシャツの生地を使ってイブニングドレスを作るなど、大胆さと普遍的な形をバランスよく取り入れたファッションを生み出した。

続いてファッション・イラストレーターのモリノー(Molyneux;1891-1974)は、1919年にパリにメゾンを設立し、はっきりしたラインと鮮やかな色彩に重点が特徴的な作品を生み出した。

また1932年に最初のコレクションを発表したニナ・リッチ(Nina Ricci;1883-1970)は、秘めたエレガンスを感じさせるドレスで、ユニークな華やかさを求める顧客の心を掴み、多くの著名人が彼女の元に通った。

(Raphaël, Robe du soir, Haute couture, vers 1947-1950)
 

さらにフィリップ・ヘクト(Philippe Hecht)とガストン・カウフマ(Gaston Kauffmann)は、1922年にフィリップ・エ・ガストン(Philippe et Gaston)と呼ばれるメゾンを設立し、スパンコールのドレスやコートで評判を呼んだ。

マドリード出身の仕立て屋の息子ラファエル・ロペス・セブリアン(Rafaël López Cebrián; 1900-1984)は、1924年にパリでメゾンを開き、1930年代から40年代にかけて、スーツ、コート、イブニングドレスなどを発表した。



5. ジャン・パトゥ(Jean Patou)

1914年にパリに居を構えたジャン・パトゥ(Jean Patou;1887-1936)は、実用的な昼間の普段着も洗練された夜のドレスのどちらもデザインすることができたために、多くの人々を魅了した。

彼は、流れるようなジャージー素材を使ったシンプルなデザインの服を考案したほか、自由に組み合わせることができるプリーツスカート、セーター、ツインセット、カーディガンも製作した。

(Jean Patou, Robe et gilet, grnde-robe personnelle de Mademoiselle Jack, mannequin de la maison Patou dans les années 1930 Haute couture, vers 1935-1938)

このシンプルなワードローブのモチーフは、キュビスムからインスパイアされたものであり、その上にパトゥはスポーツウェアもデザインするようになり、スポーツ選手からの人気も得た。

1920年代から1930年代にかけてデザインされたパトゥのドレスはフレンチファッションを体現するものであったが、フランスの美術館ではほとんど彼の作品は所蔵されていなかった。

(Jean Patou, Robe, Haute couture, vers 1930)

その代わり、アライアは、パリ的なシックさを表すパトゥのアイテムを数多く手に入れ、自身のコレクションに入れた。




6. ルシアン・ルロン、ロベール・ピゲ、ジャン・デセス、ピエール・バルマン、ジャック・グリフ(Lucien Lelong, Robert Piguet, Jean Dessès, Pierre Balmain, Jacques Griffe)

続いて戦間期から第二次世界大戦後にパリで活躍したクチュリエのブースへ。

1918年に両親が開いたメゾン(1898年設立)のディレクターに就任したルシアン・ルロン(Lucien Lelong;1889-1958)は、クレープとブラックレースを用いて、厳格なほどクラシカルでエレガンスな作品を制作した。

ルシアン・ルロンは、1937年から1945年にかけてパリ・クチュール組合(サンジカ)会長として、パリのクチュール組織をドイツに移そうとするドイツ占領軍に反発し、モードの中心地としてのパリを守ったことでも有名である。

参考:


(Robert Piguet, Robe de cocktail, Haute couture, vers 1940)

ポール・ポワレのアシスタントを務めていたロベール・ピゲ(Robert Piguet;1898-1953)は、1933年にクチュールメゾンを開き、アシスタントとして彼に仕えたクリスチャン・ディオールと共にメゾンを盛り立てた。

ロベール・ピゲの作風は、ロマンティックでクラシカル、かつシンプルなものであり「最もパリらしい」と評判を呼んだ。


アレキサンドリア出身のジャン・デセス(Jean Dessès;1904-1970)は、1937年にパリにメゾンをオープンし、1950年代、ドレープを多用し、流れるようなファブリックと混色を用いたカクテルドレスやイブニングドレスで評判を呼んだ。

一方、元々は建築を学んでいたピエール・バルマン(Pierre Balmain;1914-1982)は、1930年代初頭、モリノーやランバンのメゾンとコラボレートした後、ルロンの工房に入り、ディオールと共にアシスタントを務めた。

1945年にメゾンを設立し独立したバルマンは、ゆったりとしたコート、カクテルドレス、イブニングドレス、フォーマルドレスを得意としジョリー・マダム(Jolie Madame)というプレタポルテラインは1950年代を通じて人気を博した。

(だいぶブレてしまった)

ジャック・グリフ(Jacques Griffe;1909-1996)は、1935年から1939年にかけてマドレーヌ・ヴィオネの下で働いた後、1941年にメゾンを設立。

ヴィオネと同じくバイアスカットへのこだわりを追求し、ドレープをあしらったカクテルドレスやイブニングドレス、すっきりとしたコートで有名となった。

しかしながら時代とともに彼の名前が忘れられていっていることを嘆いたアライアは、ジャック・グリフの作品を残すために収集を始めた。



7. ジャック・ファット、クリスチャン・ディオール(Jacques Fath and Christian Dior)

第二次世界大戦後に活躍した二人のクチュリエ、ジャック・ファットとクリスチャン・ディオールは、しばしば対極的な存在とみなされるが、その時代特有の共通の精神を共有していたと言える。

ジャック・ファット(Jacques Fath;1912-1954)は、1936年にメゾンを設立して以来、第二次世界大戦を経て、戦後のオートクチュールの歴史に影響を与えた。

ファットは、グラマラスなスーツやアシンメトリーなドレープが特徴的なシース・イブニングドレスを得意とし、彼のミューズでありモデルであったベッティーナ(Bettina)は、アズディン・アライアの親友となった。

(Jacques Fath, Robe, Haute couture, vers 1948)

一方で、1947年にメゾンを設立してから1957年に急逝するまでのわずか10年ほどの間に、クリスチャン・ディオール(1905-1957)は、戦後フランスのファッション史に大きな功績を残した。

ムッシュー・ディオールは、タイトに絞られたウエスト、フレアスカート、発達したヒップ、強調された肩が特徴的なニュールックを発表し、それは、悲しい第二次世界大戦の傷跡が残るパリの街に「戦後」という風を吹き込むものでもあった。

(Christian Dior, Robe, modèle 《Maréchal》, Haute couture, automne-hiver 1958-1959)
(Christian Dior, Robe de cocktail, modèle 《Astarté》, Haute couture, printemps été 1955/ Christian Dior, Ensemble de cocktail, Haute couture, vers 1950)

ムッシュー・ディオールが亡くなる一年前の1956年、パリに到着したアズディン・アライアは、ディオールのメゾンのアトリエで数日間だけ働いた。




8. ピエール・カルダン、アンドレ・クレージュ、ルディ・ガーンライヒ、イヴ・サンローラン(Pierre Cardin, André Courrèges, Rudi Gernreich, Hubert de Givenchy, Yves Saint Laurent)

続いてアライアは、自身と同じ時代を生き、活躍したクチュリエたちの作品も集め始める。

オートクチュールの伝統の継承者ユベール・ド・ジバンシィ(Hubert de Givenchy;1927-2018)は、スキャパレリのもとで修行を積んだ後、1952年にメゾンをオープン、師であるクリストバル・バレンシアガの影響を受け、クラシカルなスタイルを貫いた。

一方1957年、イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent;1936-2008)は、ディオールの後を継ぎ、1962年には自身のメゾンを設立。

女性のファッションに男性のワードローブの影響を導入したほか、異国趣味や破壊的なテーマを用いてスマートなワードローブを生み出した。

(Yves Saint Laurent, Robe du soir, Haute couture, automne-hiver 1962-1963/ Yves Saint Laurent, Robe du soir, garde-robe personnelle de Danielle Luquet de Saint Germain Haute couture, automne-hiver, 1968, 1969)

アンドレ・クレージュ(André Courrèges;1923-2016)は、当初、建築土木技師になるために国立土木学校(ENPC;École nationale des ponts et chaussées)に進んだ後、フランス空軍でパイロットとして活躍した。

第二次世界大戦後、クレージュはファッションの道に転身し、バレンシアガなどで働いた後に1961年、オートクチュールメゾンを設立、近未来的なデザインやミニスカートで有名なデザイナーとなった。

ピエール・カルダン(Pierre Cardin;1922-2020)は、建築家になるために1945年にパリにやってきたが、結局はファッションの道に進み、クリスチャン・ディオールのメゾンでも活躍した。

1950年には自身のメゾンを開き、1960年代には近未来的なデザインやユニセックスなスタイルで話題を呼んだ。

ユダヤ系オーストリア人ルディ・ガーンライヒ(Rudi Genreich;1922-1985)は、1938年にナチスの迫害を逃れアメリカに移り住み、ダンサーとしての活動を経て、ファッションデザイナーとしても活躍するようになった。

同性愛者としての活動も行っていたルディは、透明性と自由、大胆さを特徴とするファッションを発表し続けた。





9. アレクサンダー・マックイーン、ニコラ・ゲスキエール、川久保玲、ジョン・ガリアーノ、渡辺淳弥、ティミー・ミュグレー、ヴィヴィアン・ウエストウッド、山本耀司(Alexander McQueen, Balenciaga(par Nicolas Ghesquière)、Comme des Garçons(par Rei Kawakubo), Dior(par John Galliano), Jean Paul Gaultier, Junya Watanabe, Thierry Mugler, Vivienne Westwood, Yoji Yamamoto)

1980年代以降もアズディン・アライアは同時代のデザイナーたちの作品を購入し、コレクションを拡充していった。

オペラダンサーからデザイナーに転身し会場の演出にも拘ったティエリー・ミュグレー(Thierry Mugler;1945-2022)は、デザイナーとしてだけではなく写真家としても活躍するほか、アライアに自身のメゾンの設立を勧めたのは、このティエリー・ミュグレーだったと伝えられている。

アバンドギャルドかつパンクな作風を特徴とするジャン=ポール・ゴルチエ(Jean-Paul Gaultier;1952-)は、マリンボーダーニットやメンズスカートなどで話題を呼んだ。

リュック・ベッソンの映画『フィフス・エレメント』の映画衣装やマドンナのワールドツアーのステージ衣装も手がけるなど幅広い分野で活躍するデザイナーである。

(Vivenne Westwood, Ensemble, Collection 《Street Theatre》, prêt-à-porter, printemps-été 2003/ Christian Dior par John Galliano, Robe du soir, Prêt-à-porter, printemps-été 2000, passage 46)

イギリスの植民地のジブラルタル出身で当初はロンドンで活動していたジョン・ガリアーノ(John Galliano;1960-)は、1990年代にパリに拠点を移し、ジバンシィ、ディオール、マルジェラのデザイナーを務めた。

一方、ヴィヴィアン・ウエストウッド(Vivienne Westwood;1941-2022)は、ロンドンを中心に活動し、パンクファッションを好む人々に長く愛される服を作り続けた。

バレンシアガのデザイナーに就任し、現在はルイヴィトンのアーティスティックディレクターを務めるニコラ・ジェスキエール(Nicolas Ghesquière;1971-)は、アライアの創造性から大きな影響を受けていた。

(Comme des Garçon, Robe, Prêt-à-porter, printemps-été 2014, passage 12)


さらにアライアは、1980年代以降、アバンドギャルドなトレンドを見事に表現し、パリでの話題をさらった日本人デザイナーにも興味を示していた。

日本人デザイナーのファッションショーのフロントロウでは、度々アズディン・アラアの姿を見かけられていた。

アライアは、三宅一生(1938-2022)、山本耀司(1943-)、コム・デ・ギャルソンの川久保玲(1942-)、そして渡辺淳弥(1961-)のセンスを好み、彼らの作品を購入した。


以上、前編と後編に分けて、服のコレクターとしてのアライアの一面にクローズアップした展示を紹介した。

今回のレポートの最後に、この展示での特に興味深かった点を2点論じたい。

まず1点目に、19世紀末から20世紀前半にかけてのパリのファッション産業の基盤を作ったクチュリエたちの作品のコレクションが充実していたこと。

19世紀末から20世紀前半のクチュリエの中でも【前編】で紹介した人々はわりと有名なクチュリエだと認識しているが、特にこの【後編】の前半に登場するクチュリエの中には、ほとんど名が知られていない人物もいたのではないであろうか。

また、アライア財団以外は、作品を所蔵している施設がフランス国内にはないクチュリエの作品も多いという印象を受けた。

そんなパリのファッション史から忘れ去られそうでありながらも、アライアが敬愛し、その作品を集めたクチュリエについては、この記事を振り返って読んでいただければと思っているが、その中でも、筆者にとって特に印象的であったのは、ルシアン・ルロン(Lucien Lelong;1889-1958)であった。

前述の通り、1937年から1945年にかけてパリ・クチュール組合(サンジカ)会長を務めたルシアン・ルロンは、自らの危険を顧みず、ナチスの脅威からパリのモード業界全体を守った。

もしドイツ軍によって、パリのメゾンや職人たちがドイツに移されてしまっていたら、今頃ファッションの中心地はドイツ(おそらくベルリン?)になっていただろうし、戦後にこれらのパリのファッション業界の財産が再びパリに戻されたとしても、戦後のパリのモードの発展は10年も20年も遅れたかもしれない。

逆にこの【後編】の後半を見ても分かるとおり、ファッションが好きな人ならば泣いて喜んでしまいそうな20世紀後半以降に活躍したデザイナーたちの作品は一つのブースにぎゅっとまとめて展示されている。

その展示の構造上のギャップに少々驚くかもしれないが、いかにアライアが「パリ」のクチュリエたち、つまりパリでモードを守り、発展させた人々に敬意を払っていたかを感じることができた。

そして2点目として、日本人デザイナーの作品が最後のブースでぎゅっとまとめて展示されていたことである。

このブースは筆者が訪問した時には人が多かったので撮影の機会は限られてしまったのだが、川久保玲や山本耀司、三宅一生といった日本人デザイナーにアライアが興味を持っていたことに驚いた。

アライア財団の他の所蔵品を全て調べたら他のものもあるのかもしれないが、少なくともこの会場ではアライアの所蔵品として紹介されていたアジアのデザイナーの作品は日本のものだけであった。

アライアはこれらの日本人デザイナーのショーに直接赴いていたとのことであったが、アライア自身もチュニジア出身と「パリ」以外の地域から出発し、パリで一つの時代を作ったクチュリエである。

またアライアは、チュニジアからパリへ移り住んだ1950年代末、就労許可がおりなかったためにディオールのメゾンで働けなかったことについても語っている。

外国人、いやパリ生まれ以外の人間にとって、ファッションの世界で活躍するというのは、何重にも張り巡らされた柵を一つ一つ突破していかなければいけないことを意味する。

1980年代、日本人デザイナーたちがパリに彗星の如く現れ話題をさらった時、アライアはその20年ほど前に自分がパリにやってきた時のことを思い出したのではないであろうか。

外国人にとってパリは冷たく厳しい。

そんなパリにおいて、アライアは同じ「外国人」として爪痕を残した日本人デザイナーたちに心からの拍手を送っていたのかもしれない、と今回の展示を見て思ったのであった。



参考:
「モード界の“小さな巨人” アズディン・アライアが語る人生とは」『Numéro Tokyo』(2017年11月21日)

アズディン・アライア、クチュリエ&コレクショヌール(Azzedine Alaïa, Couturier Collectionneur)

会場:ガリエラ美術館(Palais Galliera)

住所:10 Av. Pierre 1er de Serbie, 75116 Paris, France

会期:2023年9月27日から2024年1月21日まで

開館時間:10:00-18:00(月曜定休)

公式ホームページ:palaiscalliera.paris.fr

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