私たちは見たいものを見よう
以前、日課にしていた、近所の湖の周りを歩くことを ずっとやめていた。
この数年、雨が少なく、水不足が深刻化しているこの地域で、毎日減っていく湖の水量に、フォーカスするのが嫌だったから。
雨季である、去年の秋から今年の冬も、例年よりずっと雨は少なかったから、私が湖に行くことはなかった。
それが先週、店のスタッフの若い男性が声をかけてきた。
「週末に湖に行ってみたんだよ、水がずいぶんと増えていたし、
いい感じだったから、行ってみるといいよ!」
そう、勧められた。
それでも、これまでの雨の量で、きっと、期待できるものではないと踏んだ私は そうだね、と曖昧に返事をしただけだった。
けれど、今朝 目覚めて、夕べのうちに降った雨で、一掃された空気の清々しさに触れたとき、ふと行ってみようという気になった。
車を降りて、半年ぶりに、遊歩道を歩く。
聞き慣れた鳥たちの、賑やかなおしゃべりに、隠れるように虫があちこちで鳴いていた。
湖は、確かに以前よりは水量も増えていたけれど、
私は「やっぱりこんなものよね」
と、妥協点を探していた。
けれど 同時に私を自然と笑顔にさせたのは、その若いスタッフの明るい波動が、思い起こされたから。
彼の、「行っておいでよ、いい感じだよ!」
という言葉にウソはなく、
ただ、私が、以前の湖と比べているだけだった。
「水不足」、という情報をくっつけている、私がいるだけだった。
ここは、こんなにも美しく、気持ちのいい場所なのに。
通り行く人は、ジョギングをしていたり、犬を散歩させていたり、夫婦がベビーカーを押しながら、歩いていた。ほとんどの人が、通りすがりに、笑顔で挨拶をしてくれる。
私はふと思った。
本当に、私たちは どんなものであれ、見たいものを見ることができるという自由があるのだと。
私たちは、自らの視線の行先を選ぶことができる。
この豊かな湖面を見つめるのか、乾いた砂地を見つめるのか。
人生の豊かさを左右するのはたったそれだけのこと。
きらきら光る水面、
雲が織りなす美しい空、
日に照らされて、ひらき始めたカリフォルニア・ポピーを愛で、
ハミングバードの羽音を聞きながら、
歩き終えて車に戻った私は、すっかり満たされて、帰ってきた。
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