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人と人との間。距離感と過干渉。

こんにちは、なおこです。ご覧いただきありがとうございます。

コロナの影響でソーシャルディスタンスを保つのが日常になって、半年以上たちますね。私はレジなどですぐ後ろに並ばれるのが嫌だったので、間を空けて並ぶようになって良かったなと思っています。

ただ、身体的な人との距離は広がったけど、そのぶんの孤独や不安が、無関係の人に対しての過干渉につながっているのかな、と思ったり…。

このように、コロナ禍と言われるような災いの中でも良かったこと、気づいたことを書いてみようと思います。

■ 人間関係にいい意味でドライになれた

まず、今の自分にとって会う意義がある、と思える人とだけ会うことにしました。会うと疲れてしまう人とか、仕方なく、なんとなく…ということで会っていた関係性はやめました。

ギャマノン(ギャンブル依存症の家族の自助グループ)に行くのもやめました。ギャンブル依存症の家族であるから行き続けよう、と以前は思っていたけど、これも必要のない思い込みだったなと思っています。

会う人を選ぶというのは、優劣や好き嫌いのことではありません。Aの地点に行きたい人、Bの地点に行きたい人、現在地にいたい人…、いろんな人がいます。

その中で自分と同じ目的地に行く人と話すほうが、ワクワク感や想像なども膨らんで方向性が見えてきたり、有意義な時間になりますよね。

私は車を持っていないので、電車に乗って出かけることが多かったのですが、感染の危険もある電車に乗ってまで会いたい人って、私の場合は片手でおさまるくらいとても少ないです。

以前の私だったら友達が多かったので、この状況は孤独をすごく感じたかもしれません。でも、良い人やすごい人に見られたいという気持ち(ほぼ無意識)で接するのが、すごく苦しいことだと気づけたので、今はとてもスッキリしています。

まったく意味のない時間なんてないと思っていますが、まず、本当に自分が心地良く過ごすための選択をしていきたいですね。

■ 家族からの自立、執着を手放すチャンス

私は共依存になりがちなので、コロナ以前から自立は自分のテーマとして意識していましたが、コロナ禍で親と会わないようにしているうちに、自分の中でいろんな気づきがありました。今は、あえて両親と距離をつくっています。

私にとっては、今が親や夫から自立するチャンスなのです!(お互いに)

もともと過干渉の両親なので、会うと疲れることが多かったのですが、疲れるのは親のせいだけだったわけではありませんでした。

私は両親に対して、今まで迷惑をかけたぶん親孝行しないと…。感謝しないと…。もう歳だし…「親に○○してあげないと自分はダメなんだ」という強い思い込みがあったのです。

なにより、親孝行することは人の役に立っている感覚があるので、他人軸だった私は、自分の存在価値が認められることにもつながっていたので、犠牲的であっても、やめられなかったんです。

一番自分の存在価値を無条件に認めてほしい人って、基本的に親だと思うから仕方ない部分かなという気もします。

親から良い子に思われたい、親孝行している良き大人と思われたい、良い家族だと思われたい…。こういった他者から認められたいという執着が自分にあることを認め、犠牲的になっていた自分を解放するために、親との建設的な関係にするために距離をとっているのです。

それと、「あーしてほしい、こうしてほしい、なんでこれやらないの、それやめたほうがいいんじゃない?!…」などという、親をコントロールしたくなる気持ちもたくさんあったのです。

私も親に負けず劣らず、過干渉だったということです。

過干渉になってしまう場合は、対象の人を自分のコントロール下に置けないように、または巻き込まれないように距離をとり、そして、対象の人が「またあれやっちゃってるんじゃないか」という勝手なネガティブ妄想をしない(相手を信頼する)ことが大事だと思います。

なにより、自分自身に集中することです。


■ 孤独は悪いことではないと気づいた

人と距離を取ろうとすると、自分の中にある孤独な部分に焦点が当たってしまうと思います。その自分の孤独な部分と向き合うのがこわいから、嫌な人やグループなどと距離をとれず、被害者的な立場に自分を置くことで目をそらしてきた人が多いのかなと思います(無意識で)。

私は夫のギャンブル依存症のおかげもあって、ひどい孤独感は先取りしていたので(笑)、今はそれを楽しんでいるとは言えないけど、「孤独もいいよね」という感覚でいます。

結局、すべては表裏一体で自分の捉え方しだいだし、ある出来事に対しての感情は人間がつくり出していることが多かったんですよね。

一人でいる人を見たら、「あの人可哀そう、寂しいんだろうな、友達いないだな…」と思ったりしますが、これはそう刷り込まれていただけで勝手な決めつけですよね。または、自分より下の立場にいる人をつくりたい、優越に浸りたいという気持ちによるジャッジでもありますね。

一人でいる本人が寂しいと思っているかどうかはその人にしかわからなくて、一人でいることに寛ぎを感じたり、楽しんでいる人も多いのです。


■ 一人でいる人を見て可哀そうと思う人こそ 孤独

私がそうだったのですが、ネガティブな孤独を抱えている人は、自分が一人でいることが不安で寂しいから、同じように一人でいる人のことを「この人も寂しいんだろう」と勝手に思い込んでしまうんだと思います。

私も昔は、一人で外食している女性を見ると「寂しくないのかな、つまらないのになんで一人で外食するのかな」と思っていました。

そして、自分が一人で外食しないといけない状況になったときは、自分の中で「私は一人ごはんを満喫してる」という体にしていました。そして、私のことを寂しい人だと思わないでって思いながら、ずっとソワソワしていました。笑

でも、「孤独が悪いことじゃなかったんだ、孤独=寂しいというのは思い込みだったんだ」と気づき、それを意識し出すと、以前の私と同じような人は世界が変わって見えます!

一人だと、自分でやろうと思っていることを自分のペースでできて、そのときに感じることに浸れるんですよね。私は、こんなに贅沢な時間の過ごし方が簡単にできることに、なぜ今まで気づかなかったのか…と思いました。

一人が寂しいとか、寂しく思われるとか、そういう必要のない思い込みをどんどんはずしていくと、心もフットワークも軽くなります。私は一人ラーメンにも行けるようになりました。


■ 人と人に必要な間。人間だから。

自分の中の孤独と向き合うことってこわいですよね。今まで見て見ぬふりをしてフタをしてきた部分ですから。でもコロナ禍で身体的な距離、社会との距離を置かなくてはいけない状況は、そういった部分と向き合う時間を与えられたということでもあると思うんです。

向き合うのがこわい人は、今まで周りの人のことをダメだししたりして自分の劣等感をごまかし、優越感をつくり出していたのができなくなったことで、その矛先がSNSなどに向かった人もいるのかなと思いました。

私はテレビを持っていないので(貧乏だからではなくてあまり興味がないのです)ニュースや芸能情報に疎いのですが、それでも、毎日のようにだれかの誹謗中傷で盛り上がっているのがネット記事のタイトルから伝わってきます。

何となく、そういうことが以前より増えたような気がしています。今は、SNSで誰でも匿名で自分が思ったことをすぐに発信することができてしまいますからね。

人間という言葉や漢字がどういうところからつくられたのかは知りませんが、人の間と書きます。人と人が生きていくのに、間はとても重要だと思います。

間がないと、人が人らしく安心で安全な自分でいられないですよね。

家族であっても過干渉されると息苦しくて逃げだしたくなるのに、それがSNSをやっていれば、知らない人からもできてしまうわけです。

スマートホンの普及で、いつどこにいても誰かとつながる状態というのは安心であるようで、とても窮屈な世界でもあると感じています。今の世の中、この間が少なくなってたり、間をとることができなくなっている人が増えているのかなと思います。

とは言うものの、私も今からスマホをやめろと言われたらやめられないと思っています。こういう状況は、依存関係を生み出しやすいですから、スマホに振り回されないように意識して使っていきたいですね。


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