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【IDEA】学校の困難さを改めて問う

noteをやり始めて3か月ほど経ちました。フォロワーも少しづつ増えていき、やりがいがあるとともに、また一つ新しい趣味が出来たのかと思うと、素直に嬉しいです。
ところで、noteを始めて一番驚いたのは、「学校の先生」が意外に多いことです。学校の良い所、そうではない所、職場での苦労などなど…思わず、共感していました。
そこで、今回は私なりに学校について記事にしたいと思います。

ただ、タイトル通り「問う」ことを基本としているので、特段、落とし所を挙げていません。その点だけよろしくお願いします。

【集団になる条件】
その前に、まず人が集まる構図を簡単に書きます。
人間が、どうしてここまで高度な文明を持って発展し、ある意味、地球にのさばることになったのか。それは「ただ身を寄せ合う」からではなく、「役割を持って集まる」からです。

スポーツを例に挙げると、団体競技のポジション(役割)は、チームという組織を作り上げます。試合中、皆がやりたいプレーだけやっていては、チームと呼べません。

以前の記事で、仕事とは「役割を演じる」ことにあり、その対価として、報酬(給料)が決まると書きました。
結局のところ、「烏合」が「集団」になるためには役割を持たせることにあります。ただし、集団になると、どうしても例外が発生するので、そこに規律やルールでもって制限をかけていきます。

このことから、「人の集まり」を「集団」にする場合…
「役割」→「規律」
の順番で考えていく必要があると思います。「規律」を先に作る意見もありますが、その場合、余計なルールが増えていき、息苦しい組織になりがちです。集団の良さは言うまでもありませんが、個人で出来ないことを成し遂げられる点です。

静岡県の高校のサッカー部指導者です。
部活動は子供たちに役割を持たせる点で強力です。
一方で、強豪校での顧問の苦労が感じられます。

当然ですが、チームであるためには目標があり、それを達成するためにメンバーとの衝突は付きものです。生まれた軋轢は、周りのサポートと共に修復していくことで、人間関係の距離の取り方を学べます。集団教育の本来の姿かと思います。上記のDVDでは、教育現場でのドラマがあるので載せておきます。

ところで、役割や規律もなく、ただ集まるだけだと人はどうなるのでしょうか…

【集まれば良いってものでもない】

役割もなく、群がることの危険性を書いています。
群集は、感情的で動揺しやすく、誇張的など…
今の時代にも良くあてはまる名著です。

役割やルールが曖昧だとどうなるのか。それは集団ではなく、ただの烏合のままです。そこには役割も無ければ、責任も無いので、自分の意志を必要としません。それでも、群衆の中にいれば気持ちが大きくなってしまい、その大きな流れに乗っていきます。いわゆる付和雷同という状態です。言い方悪いですが、一番タチが悪いパターンです。
これは、学校が荒れる様子に似ています。

【それでも、人数がいないと集団は作れない】
私事ですが、現在の勤務校は全校生徒40人弱の超小規模校です。自治体との兼ね合いがあり、閉校するにもできない、ある意味生殺しの状態です(言い方悪いですが…)。実は、北海道の田舎はそういった高校が多く、統廃合が進んでいる本州に比べると、あまり共感できないかもしれません。入試倍率は当然1.0を大きく下回るので、生徒の質は毎年玉石混交になります。

そもそも、学校は集団生活なので、数がいなければ部活や行事など成立しない部分があります。色々な人がいて良いということ、色々な人がいるから守るべきことがある。
認め合う大切さ、違反に対してはペナルティ。
学校とはある意味、社会の縮図です。

【学校の困難さは何なのか】
役割をもって集まる場所が「集団」とすれば、学校も立派な社会になるかと思います。よく先生の台詞でありがちなのは、
「〇〇くらい出来なければ、社会に出たら苦労するぞ」
みたいなものですが、正直好きではありません。学校も社会の一種です。

ところが、多くの場合、子どもたちは学校集団をチームとは思っていません。名門校の部活の場合、「学校の名前を背負って…」という場面がありますが、それは勝利のためであり、あまり一般的ではありません。

加えて、学校というものは概して「規律」→「役割」となっている点です。大して意味の無い校則があるのはそのためです(具体的には書きませんが…)。

更に危ういのは、「第一志望大学合格のため~」といったように、学校が個人の目的のための手段になってしまうことです。
一見、目的意識が高く、手のかからない学生になりますが、こうなると、自分に必要のない科目や、やりたくない学校行事に身が入らなくなります。すると、人間関係など、ふとした嫌なことがきっかけで、時間拘束されている割にはコスパが悪いと思い始めます。その結果、学校は通う必要が無いとなります。
それもそのはず、今の時代、「個人スキル」を高めるツールは沢山あるからです。

学校はあくまでも「集団スキル」を身につける場なのです。

こうした背景に逆張りをする著名人もいます。
ただし、ブレていけないのは「集団」によって人類は発展した点にあります。

大人は、自分が受けた学校教育をロマン化して回想する傾向がある。自分の学校時代を振り返っては、自分が学習できたのは、先生のおかげだとし、先生の忍耐強さを称賛するのである。(以下略)

イヴァン・イリチ 著:脱学校の社会 66頁

【学校が社会であり続けるために】
1、そもそも、「なぜ集団教育なのか」という点をはっきりしておく。

2、子どもたちに学校での「役割」を持たせます。一過性のものではなく、それこそ部活動が強力なわけですが…
3、「役割」がある上で、必要最低限の「規律」を持たせる。←余計な校則が明確になります。
4、「『個人スキル』のために学校に通う」というマインドは、通学意義を失う恐れがある。

学校業務で迷走していた頃に読んでいた二冊です。
未だに、ぱらぱらとめくるときがあります。

今回は、困難さを書いてみましたが、学校の良さは沢山あります。そうした前向きな記事はまた別の機会に書きます。
ここまで読んでいただきありがとうございました。これからも本や動画を紹介しつつ、自分の考えを記事に投稿していくのでよろしくお願いします。


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