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古文には少しでも触れておいた方がいい。

昨日の続き。
「現代語訳 徒然草」(嵐山光三郎著 岩波現代文庫)には、残念ながら兼好法師の書いた古文は掲載されていない。
ネットで検索すれば出てくるからそれを読めばいいのだけれど、できれば少しは原文に触れておいた方がいい。

今は使われていない古い美しい言葉に触れるのは、楽しいものである。
言葉とはコミュニケーションツールであるだけでなく、
ものを考える道具であり、世界観そのものでもある。
たくさんの充実した言葉を、古いものも新しいものも、知っているということは、自分自身の体内の奥深くに、豊かな思考や感受性の土壌を作ることでもある。

もう一つ大事なのは、言葉とは音であるということだ。
そこにはリズムがあり音楽がある。
古文や漢文に接するということは、古くて美しいものの片鱗に触れるということだ。
意味がわからなくともよい。役に立たなくともよい。
その響きに少しでも親近感を持ち、美しいと感じられたら、しめたものだ。
それは生きることの意味が豊かになるということをも、意味するからだ。

ロシアでは学校の授業で必ずプーシキンを習うのだそうだ。
サンクトペテルブルクでプーシキンの家博物館を訪れたときは、
高校生の授業の見学者たちでいっぱいだった。
チャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」を観ると、
ロシア人たちは「ああ、学校で習ったなあ」と思うのだそうだ。

学校で古文をやらないということは、
ロシアの場合、プーシキンを知らないロシア人がたくさん出てきてしまうことを意味する。
彼らは今でも言うだろう。
「プーシキンの詩の韻律を知らないロシア人だなんてありえない」と。

百人一首だけでもいい、古い言葉とその音楽的な抑揚は、意味がわからなくとも、実用性がなくとも、子供の頃に触れておくと、いつかきっとそれが蘇って、人生を生きるに値するものへと深めてくれるはずだ。

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