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見るもの全てに涙を流す。

何年か前、とある施設の花壇でお花たちの世話をしていた時、小さな悟り体験が起きた。それは初夏の季節、僕は山あじさいの花を雨風から守るための囲いをつくっていた時のこと。いっしょに作業していた高齢の職員にこんな質問をした。

「ここにある花のなかでどれが一番好きですか?」
「そうだな……やっぱり……山あじさいかな」
「どうしてですか?」
「だって、これだけ世話をしていると愛着が湧いてくるよ。弱い花だからこそ、面倒を看ないとダメになってしまうからね」

その答えを聞いた時、僕の身体をひとすじの閃光がつらぬいた。「神さまは弱い人間をこそ愛しているのだ」というひらめきだった。言い換えると、病気を抱えている者、大きな問題を抱えている者、弱く、傷つきやすい者は自我が小さくなっている状態だから、明け渡し(サレンダー)が起こり、神さま(全体)の愛に抱きしめられる。

花壇にはマリーゴールドや薔薇のような見栄えの良い花々が咲き誇っていた。山あじさいはその中において、簡単に埋もれてしまう小さな目立たない花だった。

僕にとって、悟りとは、無条件の愛を自分のハートに持つ、ということだ。思考(マインド)が他人を、そして目の前の状況を判断する隙間がないほどの愛がハートから溢れるということだ。絶対的な慈悲心を自分の中に持つことだ。

あなたの目をキリストの目に置き換えてごらん。

そうすればあらゆるものに愛が行き渡っていることに気づく。あなたは見るものすべてに涙を流すことができるようになる。

キリストの目はマリーゴールドや薔薇の後ろでこっそりと咲いている山あじさいを見つける。キリストの愛はそうしたちっぽけな存在を祝福する。

もし、キリストが幼稚園のお遊戯会を見学したとしたら、どうなるだろう?

きっと彼は王子さまやお姫さまを演じるキラキラした子供たちの後ろで、草を持ち、じっとしゃがんでいる目立たない子供たちを愛おしく見つめている。

そんなふうにハートの感受性を育ててみてごらん。ハートの感覚は小さな花のように、注意しておかなければ簡単に萎れてしまう。

「思考が止まらなくて苦しい」というひとがたくさんいる。そして、思考を止める方法はたくさんある。実際、技法やテクニックはたくさんあるのだ。それらも大切だけれど、「愛の人」になると、いずれ技法やテクニックは必要なくなる。

僕がハートの中の愛を育てた方法は他人の悲しみを自分のことのように受け止めることだった。

例えば、この前、真冬の街を歩いている時、高齢の男性が腰を折り曲げながら交通整理をしている姿を見かけた。あるいは、スーパーの階段で、盲目の母親の手を引いて歩く少女を見かけた。

その時、僕のハートが大きくゆらいだ。

ただただ大きな慈悲を感じていたのだ。

ハートをひらいて生きるということは、あらゆることに傷つきやすくなることだと思う。

でも、そうした傷つきやすさを全面的に受け入れた時、思考を超えた世界に入る。

無条件の愛は夕日に似ている。夕日に救われなかった人はどこにもいないと思う。夕日の優しさや柔らかさをハートに持つのだ。

すべての人間──動物たち──木々や花々を夕日の目で見つめることができればもうあなたは思考の世界にはいない。二元の世界にはもういない。

「あなたはね、こんなに小さい時から踊っていたのよ」

と母は自分の膝くらいの位置に手をやってそう言った。僕は悲しかったのだ。ずっと、ずっと悲しみが胸にある。それを抱えて生きてきた。まるで、一日中、窓に打ちつける雨音を聴き続けているようなものだ。

僕は幼い頃から歌を歌うことや踊ることが好きだった。きっと悲しみを浄化しようとしていたのだと思う。悲しみをとりのぞこうとせず、ただ抱きしめていると、それは愛に変わる。

もし、あなたが悲しみを抱えているのなら、それが愛に変容するのを待っていてほしい。いずれあなたは世界を救う。

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