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身体の声を表現して

疲れるということを許した日。

今日は、自分のしんどさを表現することを許してみたら、私の気持ちがかるくなって、これまでとは違った体験をした。
それはそれは長いトンネルをくぐって光が見えてきたような、いつまでも続く変わらないものだ、という諦めから伸びていく道のりがぼんやりと見えた気がしている。

二分脊椎症という障害のある娘の介助として、ときおり洗腸ということを1時間ほどかけてしている。私がやるのは、お湯を流し入れる事と圧をかけて逆流を押さえること。あとは、娘ががんばって溜まった便を出し切る、という、とても疲れ果てることを4歳から母子でやっている。もう17年も。いろいろなことがあり、やらない時期もやれない時も。もちろん、ほんとはこんなのやりたくないという気持ちを抱えて、やらないと苦しくて大変なことになったりしながら、ずっとずっと『やらなば』『しょうがない』で、やってきたと思う。

昨夜は、介助していて、無理な体制をとるので「腕がつらいなぁ」「腰が痛くなってきた」と自分の身体の声を呟きながら側にいた。
今までは、この事を言うと、、がんばっている娘が申し訳ないと感じるかもしれない、一番しんどいのはこの子だから私はこれくらいの苦しみは表現しちゃダメだと、信じていた。
昨日は、ふと自分の身体が感じていることを言葉にするのもいいんじゃないかと思えてただ何となく言ってみた。言ってみると、心に余裕が出来て娘の様子が見えてきた。娘の身体の中でも何が起こっているかに好奇心が湧いてきた。
「今どんな感じがしてる?」
「いつもそうだけど気持ちが悪くて軽い吐き気がある」
「そうなんだね、言わないからわからなかったよ」
「言っても何も変わらないから」
「そう思ってるんだね」
「小さい頃からずっとお湯入れれば気持ち悪かったよ」
諦めと絶望と悲しみが幼い頃から続いていることを確認した。

私達のなかには、絶望があるんだ、諦めもあるんだ、だから、とても悲しいんだ。。やっと認めてあげられた。

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