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俳句について俳句生活1か月目が思うこと

在宅勤務が続いている。私の会社は3月初日から始まったので1か月が経過したところだ。ちょっとしたきっかけで始めた作句生活も在宅勤務と同じだけ続いている。率直に言って俳句が楽しくてたまらない。

俳句を始めたきっかけはありきたりだが「プレバト!!」だ。いつか兄の家で甥っ子と見たがそのまま忘れてしまっていた。コロナ禍で飲み会が無くなりたまたま2度目となる「プレバト!!」を見たが、この時の20-30分のコーナーだけで物足りなくなり、その閉じこもりの週末でネットに上がっているものをとにかく全部見た。それが2月末。

3月1日は暖かい日曜だった。私にも俳句が作れるんじゃないかと、プレバト!!の辛口先生こと夏井いつき先生が思わせてくれたので、早速図書館へ行くことにした。季語手帳を借りるためだ。「なにしろ季語と季節はずれている」と俳人の祖母がいつも言っていたので季語だけは間違えないようにしなければならない。季語が大事なことはプレバト!!で勉強済だ。紆余曲折あって、ひとことで言えばコロナで図書館が貸出中止で、陽気に誘われたのもあり遠出をして本屋さんへ行った。「趣味のコーナー」を端から端まで見たが俳句関連の本がない。お仕事中の店員さんに聞いて案内された俳句のコーナーは想像以上に小さく、私が一気に心を奪われた俳句の、世の中でのマイナーさを思った。

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さて、俳句を作る。なんでもいいと言われても何をどうすればよいかわからない。とりあえず身の回りのことを詠んでみる。

■ 光合成競う弥生のプランター

屋上のプランターを見て詠んだのが最初の句だ。いいのか悪いのかもわからない。とにかく見たものを17音にすることだけを考えて、思いついてはノートに書くを繰り返した。2日経ってふと「誰かに見てもらいたい」という気持ちが沸いてきた。この短い形式の詩に相性が良いのはそう、Twitter。「#俳句」で検索してみるといくらでも出て来る。本屋でのマイナーぶりが嘘のような賑わいだ。まずは俳句用のアカウントを作ることにした。ほとんどつぶやくことのない2個の既存アカウントとは、できれば別人格でやっていきたい。なんとなく。アカウント名は俳号にしよう。待て、俳号どうしよう。あれをこうしてこうして、うん、おさまりが良さそうだ。有名俳人のbotアカウントがあったので2個ほどフォローしてみた。するといくつかのおススメアカウントが出てきたので、俳句をツイートしていそうな方を選んでフォローした。無作法なフォローでもみんなが対等な優しい世界、それがTwitter。

以後、1日10句作ることを目標に、でも実際は5-6句をうろうろしながら作句している。2週目頃には「投句する」という楽しみも知った。あまり手を広げるとたいへんなことになりそうなので、ネットでできる、結果を自分で知れる、というものにだけ投句している。10日に1回くらいなんらかの締め切りがくるので今はちょうどよいペースだ。闇雲に詠むだけでは上達しないので勉強し、投句し、Twitterではイイねの数を真剣に見比べて、何が良くて何が良くなかったか自分なりに考えている。

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そんな風にドタドタとヨチヨチ歩きしている私がこの1か月で俳句について思ったことはこんなことだ。

なぜ俳句が好きなのか

反省の多い人生でした。いや、まだ終わっていないので、後悔と開き直りを混ぜて隠して他の人の人生を覗き見しながら生きている。覗き見する方法は小説や映画やドラマだったりするわけだが、多くの作品において最終的には主人公になんらかのジャッジが下される。つまり因果応報が描かれる。これが、隠している後悔を引っ張り出してくるので良くない。人生を、反省の日々も含めて楽しいと思いたいのだ。苦しみはもう、わかったわかった。ネクストステッププリーズだ。俳句はそういう心持ちにぴったりとフィットした。俳句はジャッジをしない。詠まれているのは情景だけ。読者は作者の表したいことを読み取ろうとし、想像を膨らませ、感じ入ってもクスリとしても自由だ。すべては読者に委ねられる。読者をそういう世界に誘える力量が作者になければそのやり取りは成立しないのだが、優れた俳句にはそのような力がある。いや、説明の仕方が逆かもしれない。それができる俳句だけが良い俳句なのだ。作句開始1か月にしての早すぎるかもしれない断言。

俳句に大切なもの

未熟な断言を続ける。勉強する中でどの俳人(選者)も言うのは、独自な目を持つこと、そして発見の感動を句に写すことの大切さと難しさ。作句する人は世の中にいくらでもいる。誰でもが思うことをそのまま書いていたらそこに読む価値は無い。読む人に3秒の無駄遣いをさせるだけだ。どうしてその句を詠もうと思ったのか、そこには何らかの心の動きがあったはずだ。それをじっと目を瞑ってコネコネしているとなぜ自分が「お!」と思ったのかが見えてくる。逆に心の動きのないままになんとなく目に見えたものを詠もうとしても作品は完成しない。中心がないからだ。お米を入れず具材だけ入れた炊き込みご飯のようなものだ。いや、この例えはたぶん違う。道を歩いていて写真を撮ることがあるとしたら、なんでその写真を撮ったのか、何を面白いと思ったのか、つきつめて言語化する作業は既に作句だ。その意味で、心が動いていないのに、発表するためだけに被写体を仕込んで作り込んで写真を撮ることは、自分の心の動きに自分を鈍感にさせる作業かもしれない。何とは言わない。

感動したら17音にまとめなければならない。まとめるためには不要な情報を捨てる。だから中心がわかっていないといけない。そして中心を輝かせるためには多少嘘を混ぜることも許容される。炊き込みご飯の作り方には筍を入れろと書いてあるけど、エリンギでもいいだろう。大勢に影響はない。多少の嘘が許されるのは枝葉の部分であって、伝えたい中心が伝わるようにするためには妥協はしない。言葉として正しいか、助詞は伝えたいことを表し切れているか、たった17音を作るために3つのパートを何度も入れ替えてみたりする。言葉が17音に余る時、もう少し短い言葉で表せないかと探すと、よりしっくりくる語が見つかることも少なくない。そして、自分はなんと少ない語彙の中で一日を済ませてしまっているかと思う。当然ながら言葉は知っていればいるほど豊かだ。冷蔵庫の中には野菜があればあるほどよい。

ハーマンミラーの孫が講演で、制作者のもがきは受け手は知るはずもなく制作物をそのまま受け取ればよい、それがもの作りの仕事だという趣旨の話をしていた。芹沢銈介も同様のことを言っており、これはプロダクトデザイン、装丁、建築など、いわゆる商業的にアートをおこなう、縛りと表現の間で苦闘する作家の通念なのだろう。(お金や場所など以外の)制約無く作品を作るアートとはまた違う種類の苦しみと思われる。俳句は17音、季語を入れるという2つのシンプルなルールの上で遊ぶゲームだ。ゲームは真剣に遊ばなければ楽しくない。真剣に遊んで出来た俳句は「これなら私でも詠める」と思わせるような軽やかさがあると素晴らしい。このゲームのプレイヤーには達人もいればラッキーパンチを入れる初心者もいるが、ビギナーズラックは長くは続かない。地道な練習をした者が例えゲームであっても勝つのは道理だ。

俳句の掟

俳句のルールはシンプルに2つだけと言ったばかりだが、いくつかの掟がある。「掟」は、定義の一番最初に出て来る「決まり」ではなく、下の方にある「心構え、心の持ち方」くらいのものだと解釈する。ひとつ、状況をそのまま写し取ることに専念すること、ひとつ、ドヤ顔で作らないこと。作者の思いや感想が入った句はそこで完結してしまっており読者に想像を膨らませる余地を与えない。「美しい」「美味しい」と言わずに「この作者はよほど美しいと思った、だからこの言葉を使ったのだ」と思わせることが俳句の掟。17音で17音分のことしか伝えていない俳句は3秒の価値しかない。読者が想像する時間を長く提供できる俳句は長さの分だけの価値がある。内容によっては「…も」の一語すら厳しく減点されるのは、そこに作者の観念が映し出されてしまっているからだ。自分の意見や感情は消し、だが自分が面白いと思ったことを状況を綴ることで表す。これができれば自ずとドヤ顔が見える作品は作られないはずではある。うまいこと言ってやろうと作った句にはモヤモヤと影がかかり言いたい事の中心が情景ではなく、「詠んだ素敵な私」になってしまう。標語やキャッチフレーズの金賞を狙うにはドヤ顔マインドは役に立ちそうだが、俳句ではすっかり捨てた方が良い。

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3月1日に俳句を始めたのはいいタイミングだった。冬があからさまに春になっていく毎日は俳句を詠む材料に事欠かなかった。たった17音を完成させるために何時間も費やすことはザラだが、最終的に表したいことと書かれていることがぴったりとはまった時の快感はこの上ない。4月もまた俳句を始めるのにはいい季節だ。5月も、6月も、、、いつも良い。日本には季節があり俳句がある。俳句を始める前は、俳句は特別な感受性を持った人が「降って来た575」を詠むものという感覚があり、自分には特別な感受性も才能もなく俳句を詠もうなどとは思いもしなかった。でも俳句は誰にでも作れる。私でさえ下手なりに俳句というゲームを楽しめている。

■ 果ててなお興を与えし落椿(おちつばき)

花ごと落ちる椿は落ちてからも地面を飾り楽しませてくれますね、と昨日詠んだ句です。散歩コースの公園ではポールにこんな風に乗った椿が多分毎日取り替えられていて毎日きれい。この楽しいいたずらをする人に楽しみを与えているのだろうな、という発想から詠みました。よい句か悪い句かはまったくわかりませんが、俳句生活1ヶ月のリアルとしてここに残しておきます。

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1年後、10年後にこの記事を自分で見たらどうしようもなく恥ずかしい思いをしそうですが、これはこれで消しません。

ちなみに祖母が季語と季節がずれていると言っていたのは、祖母が北海道に居たからで、現在東京に住む私にとっては季語と実感にそれほどの隔たりはない、というのがこの長い文章のオチです。

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