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日本語を教える上で専門知識がなぜ必要なのか?

 日本語学校などの教育機関で日本語教師として働くためには、日本語教育能力検定試験に合格していることや、大学などで日本語教育を専門的に学んでいるなどの資格が求められます。
 日本語教師になるために、なぜ専門知識が必要なのでしょうか。実際に外国人に日本語を教えるときに使うことがあるのでしょうか。
 私は日本語の文法を研究しているので、文法知識について述べますが、専門的な文法知識は日本語を教える際に必ず必要だと思っています。それは、学習者が同じ間違いを繰り返さないようにするためです。学習者が間違った日本語を話した時、日本語の母語話者なら「なんか変な日本語だな」と気づくことができます。しかし、専門知識がなければ、なぜ間違いなのかを説明することができません。なぜ間違いなのかを理解していなければ、学習者は別の場面で別の動詞で同じ間違いを繰り返すでしょう。
 どういうことか。例として『令和3年度日本語教育能力検定試験試験問題』の文法の問題で取り上げられた「使役文」を使って説明したいと思います。

問題:【  】内の下線部(太字部分)は学習者による誤用を示す。
これと異なる種類の誤用を1~4の中から一つ選びなさい。

【学生たちは学園祭の看板を立たせた。】

1.彼らは倉庫の電気を順番に消えさせた
2.若者たちが公園の桜の枝を折れさせた
3.部下に会場までお祝いの花を届かせた
4.非常に重いドアを協力して閉まらせた

(『令和3年度日本語教育能力検定試験試験問題』p.12(試験1-問題2(3))より引用)

 「看板を立たせた」が何かおかしな表現であることはわかると思います。では、なぜ間違いなのか考えてみましょう。

(例1) 介護士がお年寄りを立たせた。
(例2) 温泉宿の店主が道に看板を立てた。
 
 例1のように「お年寄りを立たせた」は正しい日本語として受け入れられ
ますが、問題文の「学園祭の看板を立たせた」と言うとおかしな日本語に
なってしまいます。例2のように「看板を立てた」と「立てる」という動詞を使うとまったく自然な日本語になります。

 すなわち、「立たせた」という動詞の形は「立つ」という動詞を使役形に
したものであり、日本語の使役文は人間や動物など意志を持った存在に働きかけて動作をさせた意味にならなければならないのに対して、問題文では、
「学園祭の看板」という意志を持たない物に働きかける意味になっています。
 このように物を対象とする場合は日本語では「立てる」のような他動詞を使い、使役形は使いません。

 ここまでで「使役文では主語が働きかける対象は人や動物でなければならない」というルールがわかりました。しかし、先ほどの問題を解くためにはさらに「主語が働きかける対象」が「~を」で表される場合と「~に」で表される場合があることを知らなければなりません。

(例3)日本の学校では授業の前に生徒たちを起立させる。
(例4)日本の学校では生徒たちに自分たちで教室を掃除させる。

 この二つの文はどちらも使役文ですが、例3では先生が生徒たちに働きかけて生徒たちが起立するという意味ですので、「対象」は「生徒たちを」で表されています。
 一方、例4では先生が生徒たちに働きかけて生徒たちが教室を掃除するという意味ですので、先生が働きかける対象は「生徒たちに」で表されています。「教室を」は生徒たちが働きかける対象であって、使役文の主語である先生が働きかける対象ではありません。

 ここまで理解できれば、4つの選択肢の中で主語が働きかける対象が物になっている文を見つけられます。つまり、1と2と4は働きかけの対象が物になっており、「看板を立たせる」と同様の誤用であると判断できます。3の「部下に会場までお祝いの花を届かせた」は他動詞「届ける」の使役形「届けさせる」を使うべきところを自動詞「届く」の使役形「届かせる」を使ってしまった誤用です。

 ここまで述べてきたような文法知識は、日本語教育能力検定試験に合格するために必要であるばかりでなく、学習者が間違った日本語を使ってしまった場合に、適切に説明し、間違いを繰り返さないように指導する上で必要になります。

 日本語母語話者は直感的に「この日本語はなんだかおかしい」と判断できますが、ただ訂正するだけでは学習者は違う動詞で違う場面で同じような間違いを繰り返してしまうかもしれません。
 その場だけで終わらせず、将来の誤用に先回りして、正しく導く道案内ができる日本語教師になるためには日本語の文法知識に意識的である必要があります。

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