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思考は常に孤独だけど、実行はいつもそばにいてくれる。

みんな大好き西村佳哲さんのツイートが、いつも私の心を震わせる。
(勇気出るわ、頑張ろう頑張ろう。)

「言語化の準備や下地」って、自分にとっては何だったかなあと振り返ってみたくなった。

「自分の言葉で話そう」って気軽につかうけれど、とても難しい。
いじけやすかった頃の私は、「なんだそれ知らねえよ」ってずっと思っていた。我ながらひどい。

「自分の言葉」は、何らかやってきたことへの後付けや、ある意味で過去のような気がしている。
それを一旦まるっとまとめて、思考のアウトプットと実行への約束・そして実行それ自体のことを指しているのではないかと思っている。
(逆に未来を語るってこともある。すごいパラドックスというか、誰か言語論とか学んでいる人にぜひ話を聞いてみたい。)

ちなみに情報は思考ではない。友人や仕事仲間、時には全く知らない人のアウトプットなので、それは私自身の思考ではない。西村さんのいう「借り物競争」はこのことを指しているのかもしれない。
基本的には「ああ、そうなんだ」で終わるものである。ていうか終わっていいものである。気にすんな。

「ああ、そうなんだ」で終えられないものを磨いていった先に「自分の言葉」なるものがあるのではないか、な。どうなんだろう。

とはいえ思考はほどほどにしないと、言葉の強さに本人が負けてしまっていることがよくある。これ多分、SNSで決意表明(と、私は呼んでいる)をするようになってから非常に多い。そして会って話したりしてみると、とても不安なのだなとか、心配なのだなとか、ドキドキワクワクしているのだなと思って、ちょっとしばらく見つめていたくなる。

その分実行は、動いた分だけ自他の反応がすぐあるので好きだ。
何を当たり前にという話なのだが、延々と思考のループの中にいると
「動いた気分」というものが怠け者の私の身体を支配するから、とにかく最近は小さいものでもやっぱ動くといいなと、少し散らかりだした机の上も見ながら思っている。

結局言語化の下準備や下地ってなんなんだろうな(考えきれなかった)

ともかく思考と感情、身体と構造、そして実行とふり返りみたいなものを週に1回でもふり返りたい。ここ2週間ぐらいふり返らなかったら、ちょっと身体のガタがき出した。今のところ、「私」の正直ランキング1位はやっぱり身体だった。

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