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「始めよう、私たちのオペラを」〜【Opera】全国共同制作オペラ『田舎騎士道』&『道化師』

 全国共同制作オペラは毎年、オペラ畑ではないところで活躍している演出家を呼んできて、いわゆる「読み替え」演出によるプロダクションを発表し続けている。大成功といえる時もあれば、これはちょっと、と思う時もあり、そうした賛否両論含めて極めてチャレンジングな企画であることはまちがいないが、その最大のポイントは、「今」と「日本」、というところにあると私は思っている。例えば、他の団体が海外の歌劇場との共同制作で現代的なプロダクションを上演することはあるが、全国共同制作オペラはあくまでも複数の日本の劇場がタッグを組み、日本人の演出家に任せるという点が際立ってチャレンジングなのだ。

 2023年にそのバトンを渡されたのは、上田久美子。宝塚歌劇団で(多くのヅカオタに「神」と評されるような)話題作を手がけた後2022年に電撃退団。その後初の舞台演出作品となったのが本公演である。ちなみに上田自身にとってはオペラ演出そのものが初めてだという。現代の大阪を舞台にする、文楽の要素を取り入れる、キャストは全てダンサーと歌手の2人が演じる、といった演出のアイデアは事前に発表されていたが、実際にどのような舞台になるのかは想像ができなかった。そして初日の幕が上がった2月3日以降、賞賛、否定、そして疑問など、これまでの全国共同制作オペラの中でもその反応は極めて多い。

 鑑賞前にもっとも懸念を抱いていたのは、やはりダンサーと歌手が2人でひとつの役を演じる、という点だ。正確にいうと、歌手はオリジナルのイタリアを舞台にした物語を演じ、ダンサーは現代大阪の物語を演じる、という二重の構造になっているので、両者にはそれぞれ別に名前が与えられている(例えば『田舎騎士道』では歌手がサントゥッツァ、ダンサーは聖子、というように)。そこで、ダンサーはダンサー同士、歌手は歌手同士を相手にしていくのだろうと思いきや、次第に、ダンサーの聖子が歌手のトゥリッドゥと絡んだり、あるいは同じ役である歌手のアルフィオとダンサーの日野が絡んだり、と変幻自在に組み合わされていく。そのうちにこちらは、ダンサー、歌手、といちいち気にせず、何も考えずに舞台上で起きていることに没頭してしまっていた。この多様な変貌の「妙」こそ、演出家・上田久美子の才能の為せる技だろう。

 私はWebマガジンONTOMOで上田にインタビューをしたのだが、その際彼女は19世紀イタリアの庶民の世界を描いたとされる「ヴェリズモ」を現代の日本に置き換える時に、「普通に生きている私たちが見ないことにしている=不可視化されている貧困の街」を舞台にするというアイデアを得た、と語っている。そこから舞台を大阪の(ような)下町に設定。そしてこれまでオペラを観たことがない人にも興味を持ってもらえるように、通常の字幕の他に、舞台上のセットに彼女が書いた大阪弁の字幕を投影することになった。ふたつの字幕を見比べてみると、大阪弁の方は「一発ヤラせてえな」といったどぎついセリフが満載で、それに比べると通常の標準語字幕はとてもお上品に映る。この大阪弁字幕について疑問を呈していた人が多かったようだが(曰く「あざとい」「大阪弁を使うことで底辺を演出しているのが差別的」など)、私はむしろ、字幕がいつも標準語であるという点について改めて考え直す機会をもらったと感じる。「ヴェリズモ」が本当に「庶民」=「私たち」の物語であるのなら、そこに投影される日本語字幕も「私たち」が使っている言葉でなければならないだろう。そしてその「私たち」がいつも東京人である必要は、もちろんどこにもないのだから。

ちなみに、この記事を読んだ方から、現在の大阪は(庶民を無視した政策により)東京よりも貧困が進んでおり、むしろ舞台を大阪に設定することには積極的な意味がある、という指摘をいただいた。東京に住んでいるとなかなか気がつかない視点である。

 ダンサーのクオリティの高さは随所で賞賛されているので、いまさら門外漢の私が言及することは何もない。ただ、ダンスが素晴らしければ素晴らしいほど音楽が添え物になるようなオペラ公演がこれまで散見された中、本作は、ダンスが浮き上がって見えるようなシーンはあったものの、おおむね「音楽が描き出すドラマ」と「ダンスが描き出すドラマ」の融合はうまくいっていたことは指摘しておきたい。指揮者のアッシャー・フィッシュが生み出す音楽の激情と、ダンサーの身体能力に宿る激情とが、まさに「ヴェリズモ・オペラ」ならではのドラマティックな表現として結実していた。一例を挙げると、『田舎騎士道』教会前でサントゥッツァがトゥリッドゥにすがりつくシーンは、通常のオペラでは場合によっては表面的に見えてしまうのだが、ダンサーの表現が加わることで、サントゥッツァが心の中に抱える愛とそれゆえの苦しみがより強調され胸に迫ってきた。このダンスと音楽との融合については、もちろん両作に主演したアントネッロ・パロンビ、サントゥッツァのテレサ・ロマーノ、日本人キャスト陣、そして合唱のザ・オペラ・クワイアに至るまで歌手が演出の意図を十分に理解し、ダンサーと共に作品を創り上げるという姿勢を持ち、またそれを実現できるだけの能力があったことも大きい。

 『道化師』の第2幕、これから始まる大衆演劇一座の芝居を楽しみに集まってきた人々がこう叫ぶ、「始めよう、私たちのオペラを」。こうして始まった劇中劇のラストは、それまで裏方としてダンサーを操っていた歌手のカニオが激昂してネッダを刺し殺そうとし、人形だったダンサーたちも総出でカニオを止めに入る。つまり、『田舎騎士道』からずっとダンスとオペラという両者のバランスをとってきた演出が、ここにきて完全に「オペラになる」のだ。最後の「La commedia è finita! 喜劇は終わった」というセリフはカニオによって発せられ、そして彼が死んだネッダを肩にかついで舞台から降り客席の間を去っていくに至って、オペラそのものが現実の中におりてくるという仕掛け。オペラを「私たちのもの」とするためには何をするべきなのか。演出家・上田久美子が考え導き出したその答えは、「今」の「日本」において十分にエキサイティングで意義あるものだったと思う。

2023年2月3日、東京芸術劇場。

 

  

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