【Concert】低音デュオ第9回演奏会

バリトンの松平敬さんとチューバ・セルパンの橋本晋哉さんによる低音デュオは、今年で結成10年になるそう。男性の低声と低音金管楽器という異色の組み合わせだが、10年続くというのは一定の評価、および人気を獲得しているのだと思う。聴きたい、聴きたいと思いつつなかなかチャンスがなく、今回ようやく念願叶っての初低音デュオ体験となった。

私は、「現代音楽」について、(一応音楽大学で学んだとはいえ)きちんと批評する力はないと思っているので、今回は、このコンサートを聴いて(見て?)なんとなく感じたことや思ったことを書き連ねてみようと思う。

プログラムはルネッサンス期のイタリアで活躍した作曲家の作品をいくつかはさみつつ、基本は「今、生きている日本人作曲家」の作品。中には低音デュオが委嘱して出来上がった「世界初演」のものもある。演奏後にほぼすべての作曲家が客席から立ち上がる演奏会というのも、それだけでなかなか味わい深い。だって、「フツウのクラシック」の演奏会なら作曲家はずいぶん前に死んでるんだもの。「今、ここ」という感じはそれだけでエキサイティングだし、それこそが「ライブ(生きている)」ということなんだけど、考えてみればそれってポピュラー・ミュージックの現場では当たり前なのに、こと芸術音楽になるとものすごく「奇妙な」感じがしてしまうのは、私が「フツウのクラシック音楽」の文法に染まりきっていることの証拠なんだろう。

会場を埋めていたのは、難しい顔をしたオジサンと、メガネ男子と、そしてサブカル女子風の若い娘さんたち。「現代音楽」が「音楽」というよりはむしろ「社会学」や「思想」や「ポップカルチャー」の対象であることを感じさせる。例えば新国立劇場のオペラパレスで見かける人たちとは、完全に、まったく、客層が違う。客席を見ただけで、なんかすみません、って気持ちになる(なぜだ)。

演奏された曲はどれも非常にとんがったものばかりで、それも「なんかすみません」感を増大させるのだが、そもそも現代音楽を聴くときにその方法論や理論的背景をきちんと理解しておくことは必須なんだろうか。30年ぐらい前にニューヨークのMOMAを初めて訪れたときに、そのワケのわからない展示物たちが面白くて、笑ったり首をかしげたり友達とささやき合ったりしながら見て回ったのだけど、それは「正しくない」鑑賞態度だったのだろうか。でも、まわりにいる人たちもみんな笑ったり首をかしげたり友達とささやき合ったりしていて、そしてそこはたいそう居心地のよい空間だった。以来私が「現代美術」を鑑賞する時は、いつもそんな風に「何かよくわからないけれど面白いものが見られる」という期待を抱いて見ている。

だから今回、低音デュオを聴きながら、これって理論なんか何もわからなくても「何か面白い体験ができるかも」という期待と興奮を抱いて聴きに来たっていいんじゃないかな、と感じていた。いやむしろ、「クラシック音楽」を飛び越えて、例えば渋谷慶一郎が書いた初音ミクの『THE END』に押しかけた人たちが当たり前に聴きに来るようなものになればいいのに、もしかしてもうそうなっているのかな、と思ったのだった。

曲のことも書いておこう。いちばん印象に残ったのは、前半最後に演奏された三輪眞弘作曲の《お母さんがねたので》(2014)。これは、ある文章を読んだ音声をコンピューターがピッチを解析して旋律として採譜し、それをまず橋本さんがチューバが演奏してラジカセ(今時ラジカセ!カセットテープ!)で録音、次にその録音された音を再生しながら松平さんがまねして歌うというか発話していく、というもの。つまり、人の朗読→譜面→楽器演奏→歌唱というプロセスを通して、言葉が解体され意味が分断されていくさまを体験する作品。作曲者の三輪さんはこれを「逆さまにされた歌」と呼び、またこうしたプロセスの中で「発話が人格から引き剥がされる」と言っている。

後から知ったのだが、実はここで取り上げられている文章は、2005年に起きた「丸子実業高校バレーボール部員自殺事件」で自殺した高校生の遺書。遺書とはっきりわかったわけではなかったが、タイトルや、松平さんの歌唱(と言っていいのか)から聞こえてくる単語から、この高校生が何かシリアスなことを語ろうとしているということは伝わってくる。そしてラスト、テープの音が完全に止まった後で、それまで再生された音を模倣していた松平さんが地の話し声で「死にます」と言い放ち、そこで、ああこれは遺書だったんだとわかるしかけだ。

ところが、この「死にます」が発せられた時に、客席からクスクスという笑い声が上がった。え、え?何かおかしかった?いや、怖くない?怖くなかった?私は背筋がゾッとしたよ。何も「人が死ぬと言っているところで笑うなんてけしからん」とかそういう道徳的なことをいいたいんじゃない。とにかく、言葉にできない、言いようのない恐ろしさ。

改めて考えてみるとそれは、「死にます」という言葉の意味するものが変質したために感じた恐怖なのだと思う。それまで音高とリズムのつながりのレベルにまで解体されたためにほぼ意味を失った「言葉」をずっと聴かされてきたところで、急によく知っているイントネーションを持った、意味を伝えるための「言葉」が飛び込んできた。おそらくその時、この「死にます」という言葉は、通常私が「死」という言葉から受け取っているよりもずっと強烈な何かを意味していた。だから、背筋が凍るような恐怖を感じたのだ。再び作曲者の言葉を引けば、人格から引き剥がされた発話は「模倣されるべき過去の痕跡としてのみ眼差されている」。この作品を通して、言葉というものがいかにそれを発する人の感情や思考(人格)、発せられるコンテクストに依存しているのかということを感じさせられた。「模倣されるべき過去の痕跡」としての言葉は、そこに人格が存在しないからこそ、根源的な恐怖を抱かせるのだろう。

他にも、奏者が舞台から出て行ったりヒモを使ったりする足立智美《超低音デュオ》(ちなみに足立作品は2曲用意されていてTwitterのアンケートで曲が決まった。個人的にはもう1曲の《ディープ・スロート》がすごく聴きたいw)、『カルメン』の断片がコラージュされる木ノ脇道元《TORERO》、ディレイがかけられた音をヘッドフォンで聞きながら演奏するという聞いただけで頭が混乱する山本裕之《細胞変性効果》など、本当に「ザ・ゲンダイオンガク」が目白押し。私は1人で聴きに行ったのだけど、やっぱりこの手の演奏会は、MOMAみたいに友達とワクワク、ドキドキしながら聴きに行って、あーだこーだささやき合うのが楽しそうだ。

2017年3月10日、杉並公会堂小ホール


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

note.user.nickname || note.user.urlname

いただいたお金は、記事作成のための取材費や資料費等にあてさせていただきます。

よろしければシェアもお願いいたします。
1

室田尚子

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。