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【Concert】東京・春・音楽祭「Cabaretを巡る物語〜1920年代の華やかなりし上海から、パリ、ベルリン、そして上野へ」

 キャバレー(芸術キャバレー)は19世紀末のパリに生まれ、その後ドイツに輸入されたパフォーマンスのジャンルである。特に両大戦間のベルリンにおいて爆発的な人気を博し、その流行はヨーロッパ中に広まった。フランスにはその前からシャンソンを聞かせる酒場はあったが、キャバレーがそれらと決定的に違っていたのは、そこに時代の空気を敏感に感じ取りそれを作品へと昇華させることのできる詩人や音楽家、画家といった芸術家たちが集まったことだ。キャバレーの主な演し物はシャンソンだが、時代の世相を鋭く切り取るもの、すなわち「時代諷刺」を中心に据えたシャンソンが数多く生み出された。つまり、キャバレーは第一義的に「諷刺」を担う芸術なのである。

 ドイツに輸入されたキャバレーは、ドイツ語風に「カバレット(Kabarett)」と名前を変えたが、その本質は維持された。いや、両大戦間のベルリンで次々と生まれたカバレットにおける「諷刺」は、本家のパリを凌ぐほど強烈なものとなる。それは、カバレットに集まった芸術家たちの中に左翼主義的な傾向をもつ者が多かったことも作用しているだろう。また、第一次大戦後に誕生したワイマール共和国が、敗戦による多額の賠償金によって経済が悪化し、政治的にも不安定で社会的に多くの問題を抱えていたという背景があることも見逃してはならない。パリのキャバレーが次第に娯楽中心の施設へと変貌してしまった後で、両大戦間のベルリンのカバレットは、時代の様相や社会の実情を「歌」という衣でくるんで突きつける、見事な「社会諷刺」の武器となったのである。

 さて、本公演は、サブタイトルにあるように「1920年代の上海とベルリンとパリのキャバレー」的なものを再現しようとする試みであった。中心となった中嶋彰子の脳裏には、(ヨーロッパを活動の中心としているのだから)「キャバレーなるもの」への明確なイメージがあったことは想像に難くない。そしてそのイメージは、おそらくかなりの程度まで再現できたのではないか。MCにシャンソニエ聖児セミョーノフを配し、ダンサーやドラァグ・クイーンも登場する舞台は見どころも十分。アトリエヨシノの吉野勝恵のデザインした衣裳もほどよくエロティックかつキュートで、サングリアやカクテルのグラスを傾けながらというスタイルもキャバレーらしい。会場に、かつて鶯谷できらびやかなネオンを輝かせていたグランド・キャバレーの跡地である東京キネマ倶楽部が選ばれたことも功を奏して、集まった人々は、東京・春・音楽祭という「マジメなクラシックの音楽祭」における「一風変わったオシャレな企画」を存分に楽しんだことだろう。

 だが、そこでみせられたのは、あくまでも「1920年代のキャバレー的なもの」でしかなかった、ということはどうしても言っておかねばなるまい。先ほど述べたように、キャバレーとは第一義的に「諷刺」の芸術である。もし、2018年の東京にキャバレーを生み出そうとするのであれば、そこには2018年の東京なりの「諷刺」がなければ、それはキャバレーとはいえない。少しでも社会情勢に敏感であるなら、今の東京、日本がどれほど「ヤバい」状況にあるのかを感じないはずはない。1920年代のベルリンの芸術家たちが、自分たちがおかれた「ヤバい」状況に反応してカバレットという諷刺で対抗しようとしたように、2018年の東京の芸術家たちもまた「ヤバい」状況に対する諷刺を打ち出してこそ、それがキャバレーとなる。残念ながら本公演にそうしたキャバレーの姿をみることはできなかった。

 あるいは主催者の目指したものは、あくまでも「1920年代のキャバレーの再現」なのだというのかもしれない。もしそうならば、例えばパリのパートで歌われたシャンソンがずっと後の時代のものばかりだったり、かと思えばずっと前の時代の流行であるフレンチ・カンカンが踊られたりしたのはどういう意図なのだろう。単なる「キャバレー風のショウ」をやりたかったということなら、それはすでに20年以上も前にウテ・レンパーやマリアンヌ・フェイスフル(の場合はむしろ本物のキャバレー精神が感じられるコンサートだった)が恐ろしいほどのレベルでやりきっている。

 公演のオープニングは、1972年の映画「キャバレー」冒頭シーンの、非常によくできた再現だった。映画のジョエル・グレイさながらタキシードにシルクハット、化粧を施した聖児セミョーノフが「Willkommen」を歌い、キャバレー・ガールズ紹介のセリフまでそっくりそのまま。この映画は1931年のベルリンのキャバレーを舞台にした作品だが、ジョン・カンダーとフレッド・エブによる楽曲はすべてオリジナル、つまり72年の作品だ(一部は69年の舞台化の際につくられたものが使われている)。もちろん「Willkommen」もそうだが、曲調、英語・ドイツ語・フランス語混じりの歌詞、そして楽器編成など、驚くほどに「30年代のベルリンのカバレット・シャンソン」の特徴を押さえている。だからこそ、この映画は「30年代のベルリンのキャバレー」の空気を伝えることに成功しているのだ。ただそっくりそのままコピーすればいいのではない、という見事なお手本を冒頭に持ってきておきながら、公演自体からその精神を感じることができなかったのは残念としかいいようがない。

 つけ加えると、本公演は第1部と第2部に分かれており、終電後のオールナイトで行われた第2部には私は参加してない。だからもしかしたら、第2部の方では「今しかできない」キャバレーがあったのかもしれない。もしそうであればこの批評は、あくまでも第1部の公演に対してということをご承知おきいただきたい(ただ第1部だけで帰ったお客さんは大勢いたこともつけ加えておく)。そして、色々不満はあるものの、「東京・春・音楽祭」でこうした公演が行われたことそのものは、色々な音楽のすがたを伝えるという意味では評価できると思っている。もしこの公演が来年もシリーズとして続くのであれば、次はぜひ、「2019年の東京のキャバレー」をみてみたい、と思う。

2018年4月6日、東京キネマ倶楽部。


 

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