見出し画像

読み替えの功罪〜【Opera】新国立劇場『カルメン』(新制作)

 これはもう何度もいろんなところで言ってきたことなのだけれど、『カルメン』は私の最愛のオペラである。男に命を奪われるかもしれないという状況に直面しても「私は自由に生き、自由に死ぬのよ」と言い放つカルメン。女として憧れずにいられようか。そう、『カルメン』というオペラの最大にして唯一のテーマは「自由」。人が生きる上でもっとも重要なテーゼ。さらに「女性」における「自由」というテーマは、2021年の現代ですらまだ実現困難な課題として十分にアクチュアルだ。

 新国立劇場の『カルメン』新制作は、2年前に『トゥーランドット』の新制作で「女性が生きること」に新たな焦点を当てることに成功したアレックス・オリエに任された。プログラム・ノートでオリエは次のように語っている。

 カルメンは力、喜び、勇気、反骨心、そして自由を象徴しています。
 歌手のエイミー・ワインハウスは、私たちにとってカルメンのイメージそのものです。エイミーの人生は、決然としていて短気な若い女性の、成功と没落のストーリーです。…(中略)…私たちは何よりもエイミーを美的、ヴィジュアル的な面で参考にしました。

 このプロダクションのカルメンは、エイミー・ワインハウスのシンボルであるビーハイヴ(トップを蜂の巣のように盛り上げたヘアスタイル)で、50年代風のミニドレスに身を包んだロック・スターとして登場する。オリジナルでカルメンを取り巻く兵隊・タバコ工場の女工たちは、警官(まんま日本の警察の制服を身につけている!)・コンサートのローディー・プロデューサー・観客へ、そしてカルメンの仲間であるロマの盗賊団はステージの裏で暗躍する麻薬の売人たちへと置き換えられている。鉄パイプで作られた巨大なロック・コンサートのステージやその裏側で、人々はカルメンというスターに声援を送り、熱狂し、あるいは彼女を利用する。

『カルメン』の物語を現代へと置き換える際に舞台をエンタテインメントの世界にするのは、既に2019年に田尾下哲が試みている。その時にはカルメンはスターを夢見るバーレスク・ダンサーという設定で、ショービズ界の大物であるエスカミーリョに見出されハリウッド・スターへの道を駆け上る、というストーリーへと読み替えられていた(ところで、本作の第4幕がアカデミー賞のレッドカーペットを思わせる作りになっていたのだが、これは田尾下版とそっくり同じアイデア。オリエは先行作品を知らなかったのだろうか)。一方今回のオリエ版では、カルメンは登場した時からすでにスターで、人々の歓声に包まれている。と同時に、ひっきりなしにタバコをふかし、アルコールを飲み、些細なことで激昂する裏の姿も描き出す。そんなエンタメ界のスター・カルメンが、冴えない(と映る)私服警官であるホセに恋をする。オリエはここで、いわゆる「ロック・ディーヴァの孤独」というものを描き出そうとしたのだろうか。再びオリエの言葉を引く。

 現代の聴取が完璧に理解することができる場所——音楽、名声、金、ドラッグ、アルコール、愛、情熱、嫉妬、そして自由があるこの世界に、悲劇が再び作り出されます。

 確かにこの読み替えは、2021年の東京に生きる私たちにとって(あるいは初めて『カルメン』というオペラを観る人たちにとって)、作品との距離を近づける効果をあげただろう。19世紀のスペインのタバコ工場で働くロマの女性よりは、エイミー・ワインハウスの方が私たちに近い、という意味で。

 そもそも『カルメン』という作品は、読み替えのない演出でも十分にそのテーマを感じ取ることができる。それは何よりもビゼーの書いた「音楽」が、カルメンの自由を、その自由のままならない社会を雄弁に描いているからだ。だから私たちは初演から140年以上経っていても、このオペラを観るたびにカルメンという女性の生き様に心を揺さぶられる。一方で、エイミー・ワインハウスに仮託することで、カルメン像を理解する上で何か新しい要素が加わっただろうか。例えばエイミーといえばアルコールと麻薬に溺れ、それが早すぎる死の原因となったことが知られているが、劇中で麻薬が出てきたのはダンカイロが仕事を持ちかける場面で覚醒剤を思わせる白い粉の入ったビニール袋を取り出す場面だけ。しかもそれに反応したのはフラスキータとメルセデスで、カルメンはほぼ無反応だ。仮に(非常によくある設定ではあるが)スターですら裏に回れば男たちの慰み者になったりして社会的に搾取されている、というような描写があれば、現代社会における女性の生きづらさなどの視点が炙り出されたのかもしれないが、そうした描写はまったくみられなかった。ここで描き出されたカルメン像は「恋に奔放で自分の思い通りに生きることを身上とする」というもので、むしろ伝統的ですらある。図らずも演出家が述べているように、エイミー・ワインハウスはあくまでもそのヴィジュアルを利用されたに過ぎないのだ。

 もちろん、読み替え演出によって、物語が現代に生きる私たちにとってより近しい存在と感じられる、という効果を軽視するつもりはない。だが、せっかくエイミー・ワインハウスという稀代のロック・スターを借りてくるのであれば、もっと「ロック」(もしかしたらエイミーは「ジャズ」の方が正しいのかもしれないが)に対する目配りが欲しかったというのが正直なところだ。例えば、カルメンの主題歌といってもいい「ハバネラ」は、コンサートのステージにカルメンが登場して最初に歌うナンバーなのだが、なぜかこれまでに聴いたことがないくらい遅いテンポで、しかも随所で奇妙な引き伸ばしがかかる。結果として音楽にまったくドライブ感がないので、「ロック・コンサートの場面」というヴィジュアルとの間に齟齬が生じてしまう。

 また、この作品の本質であるべき「自由」というテーマの描き方についても疑問符がつく。『カルメン』の中でもっとも強く「自由」がうたわれるのは第2幕だ。帰営ラッパが鳴り響いて慌てて軍隊に帰ろうとするホセをなじるカルメンが歌うメロディが、そのままフィナーレで盗賊団たちの合唱となる。「La liberté リベルテ」という言葉が高らかに歌われるこの合唱こそが、『カルメン』という作品最大のポイントだと思うのだが、今回の演出ではこの合唱が始まると舞台上の照明が消され、一段高いところに上がったカルメンとホセだけが照らし出されていた。なのでこの「La liberté リベルテ」は闇の中から響いてくることになり、「自由こそがもっとも大切なもの」という主張が弱まってしまったように感じられた。

 とはいえこのプロダクション、好きか嫌いかでいえば嫌いではない。何より鉄パイプのセットの視覚的効果は抜群だし、コンサートが大型ビジョンに映し出されるところなども見応え十分。何より、観客を飽きさせない工夫は今のオペラにとって必要なことだと思うからだ。実際、客席には若い観客も数多くみられ、この新演出がアピールしていることを感じさせられた。

 カルメン役のステファニー・ドゥストラックは、抜群のヴィジュアルで見事にエイミー・ワインハウスになり切っていた。声量が豊かで、表現力も自在。まずは文句のつけようのないカルメン=エイミーだったといっていい。ドン・ホセの村上敏明は、初日は声の調子が悪く歌唱のみカヴァーだったそうだが、今日はその美声をしっかりと聴かせてくれた。惜しむらくは4幕のフィナーレ、いちばん大事な場面で声が掠れてしまったこと。スタミナが続かなかったのか、やはり本調子ではなかったのかもしれない。エスカミーリョのアレクサンドル・ドゥハメルは今注目のフランス人歌手とのことだが、2幕は声量がなく、3幕では盛り返したが今度はただ大きい声で歌っているだけで柔らかさがない。やはりエスカミーリョは「問答無用でカッコよく」あってほしい。今回、盗賊団に起用された町英和(ダンカイロ)、糸賀修平(レメンダード)、森谷真理(フラスキータ)、金子美香(メルセデス)がたいへんにいい味を出していた。フランス語のセリフなど、みんななかなかの出来ばえ。特に森谷のような主役級の歌手がこうした役で出てくると、アンサンブルがグッと底上げされる(でも、いささかもったいない気もしたが…苦笑)。合唱は新国立劇団合唱団とびわ湖ホール声楽アンサンブルの合体部隊。そのせいなのか、演出のためか、随所でアンサンブルに乱れが生じたのは残念。児童合唱の東京FM少年合唱団はフランス語歌唱も揃っていて大健闘。舞台のクオリティはこういうところにも表れるなと思わされた。

2021年7月17日、新国立劇場オペラパレス。 



皆様から頂戴したサポートは執筆のための取材費や資料費等にあてさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします!