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【Opera】東京二期会『天国と地獄』

 「序曲」だけがやたらと有名なオッフェンバックのオペレッタ『天国と地獄』。二期会はこれまでに、なかにし礼演出(坂上二郎がゲスト出演したことで話題になった)、佐藤信演出と2回上演してきている。今回は鵜山仁が演出を手がけたニュー・プロダクションだ。ちなみに、二期会のオペレッタが伝統的にそうであるように、今回も日本語歌詞・日本語セリフによる上演である。

 鵜山の演出は、ひとことでいえば「楽しく、わかりやすく」。セリフ部分はすべて鵜山が書き下ろしたものとのことだが、さすが演劇畑の第一線で活躍しているだけあって、セリフの言い回しや言葉の抑揚などが自然に聞こえるように工夫されている。随所に散りばめられたギャグも、(オペラの観客を意識して?)やりすぎない程度に抑えられていて下品すぎない。オペラ歌手は芝居を専門に学んできたわけではないので、人によってはどうしてもセリフ回しが朗々としたオペラ調になりがちなのだが、その辺りもかなり訓練されたあとが伺えた。

 装置(乗峯雅寛)、衣裳(原まさみ)共にものすごく現代的ではないけれど、そこそこにオシャレでポップで可愛い。照明(古宮俊昭)も工夫されていてヴィジュアル的にも楽しいので、全体的にバランスが取れた舞台となっていた。当たり前のようだが、このクオリティを出してこられるのは二期会が歴史的にオペレッタの上演を重ねてきた経験があるからこそだろう。

 オッフェンバックの音楽がどれほど上質で香り高いものなのか、ということを見事に表現した大植英次指揮、東京フィルハーモニー交響楽団にも拍手を贈りたい。特に大植は、優雅で洒落たフランスのウィットに溢れたこうした音楽に大いに才能を発揮してみせた。「序曲」だけではもったいない。オッフェンバックの音楽は舞台で聴いてこそ、ということを強く感じた。

 歌手陣については適材適所のキャスティングがなされていたとは思うが、やはり大人数なだけにその出来栄えにやや差が出てしまったのは惜しいところだ。私は2日組のゲネプロと初日本番を観たが、このキャストはこの人、こっちのキャストはこっちの組から持ってきたらベストだったかな、と思うところもあった。この辺りはプロダクションの上演形態の問題でもあるので致し方ないのだろう。今回、特に目を引いたのがダンサーだ。男女混合の6人が冒頭から羊になったり、地獄の番犬になったり、と大活躍。特に、有名な「フレンチ・カンカン」を男女ともに同じドレスを身につけて踊ったのには度肝を抜かれた。地獄の大宴会だもの、そりゃ男性がドレス着て踊ったっていいよね。あ、そうか、地獄のものたちだから性別関係ないのか、と妙に納得。

 さて、人によっては、演出にもう少し「毒」が欲しかった、という意見もあるかもしれない。そもそもこの作品、古くからオペラの題材となってきたギリシャ神話のオルフェウスとエウリュディケの物語の徹底的なパロディだ(劇中には、グルック『オルフェオとエウリディーチェ』の有名なアリア「エウリディーチェを失って」が登場する)。権力を皮肉り、伝統を嘲笑い、良識に矢を放つような諷刺が作品の身上である。であるならば、おそろしい勢いで政治が腐敗し続けている(とみえる)現代の日本社会に対して、もっとあからさまなアイロニーを盛り込むことも可能だったろう。そうした先鋭的なオペレッタも観てみたかったと思う一方、ここで展開するあらゆるドタバタの根底には人間の逃れられない運命、すなわち「生と死」がある、という本質が感じ取れたという点で、これはこの演出でよかったと思いたい。プログラムで鵜山はこう書いている。

 「死」を避けるのではなく、むしろあけすけに「死」を遊ぶ。こんなに能天気に踊り騒いでいる連中のところには、さすがの「死」もうっかり近づいてこられない。そういうエンターテインメントを創ることは確かに我々の夢です。

 人はいつかは死ぬ。その運命から逃げようともがけばもがくほど、「死」は私たちを追いかけてくる。あらゆるエンターテインメントは、そうした逃れられない運命から人間をひととき救い出してくれるものなのだ。無論、それは束の間のものかもしれない。だが、人生は束の間の連続だ。この日『天国と地獄』を観て笑い転げた後、劇場を出て行く私の心の中にはなんだか幸せな酩酊が残った。それこそ、オペレッタというものの最大の功績ではないだろうか。

2019年11月21日、日生劇場。

 

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