見出し画像

「男性が○○してくれない」を考える

こんにちは!最近、noteの記事や周囲の日本人の女性の中で「男性と女性の性差」の中に不便を感じている女性たちが多いのではないかと感じることがありました。例えば、男性上司が女性(である自分に対して)配慮がないと感じたり、男性パートナーとの関係の中で女性(であること)が利用されたり尊重されていない、と感じることがある…というような感じです。

「男尊女卑」とまではいかないまでも、日本の中ではまだまだ「女性であること」が男性との関わりの中で不便や不自由を伴う足枷になっている…と感じている人(女性)たちが多いのかなと思ったりしました。

それに対して、私の周囲の女性たちの中には(考えてみれば国籍を問わず)職場や家庭の中で当然のごとく声を上げ、自分の求める人生を貪欲に突き詰めている人たちもいます。今日はそういう女性たちについて書きたいと思います。

意外と男女比が均衡を保てている日本の「先生」という仕事

少し話はずれますが、私たちは日本の公立高校で教諭として勤務していましたが、私は日本における学校教員という仕事は、男女の性差を問わない仕事だったなと感じています。つまり、簡単に言うと「女性だから」とか「男性だから」という性差に基づいて教職を選ぶことが起こりにくい仕事だということです。特に私たちが所属していた高等学校においては、男女比率は同じくらいであることも少なくありません。初等教育を見ても、男性も女性もいるという感じです。

一方で、オランダの初等教育の性別はかなり女性に偏っています。私が勤務する学校でも30名くらいの教職員に対して、男性は2名のみ。ほとんどが女性です。これは、オランダ全土を見た時もそうで、特に初等教育では(校長を含め)女性が目立ちます。給与面で見てもそこまで高くない職業だからこそ、どうしてもそこを担うのが女性に偏ってしまうので、決して良い状況だとは言えません。また、2023年のオランダのジェンダーギャップ指数は28位と低く(日本は125位)、決して良い順位だとは言えないかもしれません。オランダにおいて、パートタイマーを選ぶのは女性の方が多く、管理職に就く女性の数も大きく男性を下回っています。

それでもこの国の女性がタフだと感じる時

一方で、オランダに移住してきて、子育てをしている女性関わり始めてから、オランダのママはタフだな〜と感じることは多いです。行動に関して言えば、体格の大きい人の数が比較的多いことも作用しているように感じるのですが(笑)、「女性であること」を「弱い」という意味で表現しない感じが、個人的に「逞しい」と感じた理由な気がしています。

例えば女性には生理がありますが、一般的には月に1回くる生理に対して「…という訳で女性も大変なんで、女性を労ってくださいね」という感じというよりは「生物学上起こるこの生理という事象に対して、男性は当然理解を示すべきだ」という感じ。「だって、皆んな女性から生まれるでしょ?それを可能にしているのがこの生理現象なのよ?(何か文句あんの?)」時々、それくらいにも感じます。

女性はただか弱い存在だから守られるべきなのではなく、女性は男性と違う部分で苦労を伴うことが多いからこそ、そこに気がつきなさい。というような感じで「人口の約半分を占める女性に対しての違いに対するリスペクトがなければおかしいだろう?」という思いが込められているようにも感じられます。

男女というよりは「違い」には気を配れ

上では「生理」という生物学的な違いについて例として言及しましたが、コンセプト的に「違い」には気を配れという感じな気もします。宗教や価値観、性的指向など、マジョリティが「当たり前」と取れるところに対して「違い」が発生した場合、そこに「あえて気を配るということを忘れるな」という感じでしょうか。

それがわかりやすくいくと男女間にある「生理」という現象だったり、「宗教」という事象だったり…もちろん、理想的に皆がみな「違い」に対して理解を示したり、尊重したりしている訳ではありません。

それでも、「男女」というわかりやすい、圧倒的大多数に起こり得る「違い」に関して言えば、約半数が男性であり、同じく約半数が女性であることから、女性もそれなりに「声をあげる」という姿勢を失わないように「あえて」行動していると感じることもあります。

女性が女性であることを過小評価する時

「男性が○○してくれない」というような声を女性から耳にすると、時々その女性本人が最初から「女性であること」を自ら過小評価してしまっているのではないかと思うことがあります。つまり、スタート地点から同じ土俵に立っている感覚で物を言っていないように感じるということです。

社会における仕事の業務分担や、家庭における家事育児の分担…かつての人類はこれらを「女性の役割」「男性の役割」として明確に分けていました。簡単に言うと、男性は狩りに出かけ、女性は家でその帰りを待ちながら協力して子育てを行う…というような感じです。一方で、現代社会では女性の社会進出も追い風となって「分担すること」なしに社会は回らなくなっているような部分も見受けられます。

その時、労働市場で働く女性がスタートの時点で「家事育児は本来女性がするもの」と捉えてしまっていると、それをスタートとしてキャリア形成を考えたり、働き方を(自分の本来の意思とは異なる方向で)変化させたり、男性に負担がないようにことが運ぶように機転をきたしたり…というように行動するようになるような気がしています。

それ自体は「悪いこと」ではないとは思いますが、それを無意識的にやってしまっているのか、パートナーとの間の話合いの上で納得してそう行動しているのかでは大きな差があると思っています。

「チームの一員」としての意識

そこで、パートナー(ここでは男性)に対して、自分の本当の希望や願いがどこにあるかを明確に伝えることなく、そしてお互いの欲求や希望がどこにあるのかを確かめることなく日常の日々を回し始めると、結局のところ女性が本当に自分が望むものはどこにあるのかがわからないままになってしまい、結果的にハッと気づいた時「○○してくれない」という不満に変わってしまっているような気がしなくもありません。

パートナーシップや家族という単位は基本的に「チーム」なので、誰かが極端に(無意識的にも)遠慮をしている状態は「良い状態」とは言えないと思います。その良くない状態を作り出しているのは「自分の人生や価値観の中にある希望や願いがどこにあるのからない」という女性の中にあるかなりモヤっとした煙のような塊が発端なのではないかと思ったりもします。

根本的に、まず女性が「自分が望んでいるもの」に自ら辿り着くことも重要ですが、辿り着く過程を男性が認知し、理解を示しながら「チームに必要な道標」として捉えることも必要だと思います。つまり「女性がどうしたいか」という悩みに寄り添うことは、チームのより良い状態の実現を考えた時に、チームメイト(パートナー)として一緒に考えるべき課題であるということです。

「私の幸せも考えて」とアピールする女性たち

そういった意味で、私の周囲にいる「自分がどう生きたいか」を自覚している女性たちには「自分はチームの一員である」ということへの意識が強いように感じています。つまり、「私はチームの一員なんだから、私の願いや希望、幸せについてもちゃんと考えてくれ」という自覚を持って、チーム内(家族内)で声をあげているということであり、それに対してチームメイト(男性)が耳を傾けるようにしているという状況です。

これは、女性が声を上げるから男性が耳を傾けるのか、それとも男性に耳を傾ける意識があるから女性は声を上げやすいのか…卵が先か、鶏が先か…という議論になりやすいですが、私はやはり「どちらとも」が必要なのだろう、と彼らのパートナーシップのあり方を見て感じています。さらに言えば「お互い補い合っている」という感じです。

女性が自分が「チームメイト」であることを自覚し、チーム内で声を上げている姿を異なる文化から見ると「タフな女性たち」に見える訳ですが、彼女たちは「チームの一員であること」を忘れていないということでもあると思っています。そして、同時に「チームメイトの声をちゃんと聞きや」と男性にも諦めずにリマインドし続けているということでもあるのかもしれません。

「分かり合いたい」がないと成立しない

そもそも、チームのいい状態を実現するためには、チームメイトが「この状況をwin-winな関係の中で乗り越えたい」とか「何とかしてでも分かり合いたい」と思えていいることが前提で、そうでなければ両者が課題に前向きに取り組むことはできず、結果的に「良い状態」は実現しません。

つまり、簡単に言えば「課題を一緒に乗り越えたいと思えるくらい愛し合っている」ということなのかもしれません。そして、愛し合っていない人とはこの難しい課題に取り組むことはできないので、彼らの場合「別れる」という選択をするということにもつながるのでしょう。考えてみたら、とてもシンプルです。

私は義則との関係の中で、特に子どもを産んでから「女性という理由で自分を犠牲にすること」に対して強く疑問を抱いてきました。どうしても女性しか担えない役割(出産や授乳など)に対して、彼のリスペクトがないと感じた場合、何度も話し合いの場を設けてきました。

そうすることはある意味当然で、男性にとって「経験したことのないこと」や「これから先も一生経験することがないこと」を想像して、そこに配慮することは極めて難しいことだからです。そこに対して、言葉を尽くすことは女性にしかできないことなので、それを諦めるということは、彼に「理解してもらう」ということを諦めることにもつながります(そして、最終的にその苦労を担うのは自分…)。

幸いにも、義則は耳を傾けてくれたからこそ、ここまで良い関係を維持することができた訳ですが、不足していると感じたら「女性(私)に耳を傾けること」の重要さを語ることもしてきました。つまり、この関係づくりは"co-responsibility"つまり、お互いの連帯的な責任に対する感覚を維持し続けることによって初めて実現するものなのだと思います。そして、同様に同じことが起きれば私は彼の話にも耳を傾けます。それが、チームの一員である私にとっても必要な行動だからです。

「女性であること」は社会やパートナーシップにおいて、決してネガティブに扱われてはいけないことだと思います。一方で、そのネガティブを払拭するには、女性がそうならないように働きかけることも重要なのかもしれません。何故なら、男性にとって0のものを1として想像することは容易ではなく、女性にとって0のものを1として想像することもまた同様に難しいです。

「女性を理解してもらう」これは決して「フェミニスト」的な考え方ではなく、女性が同じ土俵に立っていないと無意識的に感じているところにメスを入れるための考え方だと思っています。

私たちの活動内容に賛同いただける方々からのサポートをお待ちしています。ご協力いただいたサポートは、インタビューさせていただいた方々へのお礼や、交通費等として使わせていただきます。よろしくお願いいたします!