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完璧な人間なんていない

完璧な人間なんていない。

私たちは機械じゃない。

完璧な人間なんていない。

私たちは、生まれる前に、親を選べないように 遺伝子や生育環境を自分たちで選べない。

私たちは、絶対に障害や病気あるいは老化を防ぐようにように体ができてない。

もし、完璧な人間になれるなら、 誰もが善良な人間だったはず。

そして誰もがそうじゃないこと私たちは知っている。

だからこそ、 そんな世界だからこそ、

私は、 正しいことより 優しさを忘れずにいる人間でありたい。


これは一年前のツイートである。

私がなぜこのようなことを書いたのかは覚えていないが、

病気であった時に、多分頭がフル回転していたのだと思う。

まぁそれはおいておいて。

人間、誰しもが間違う前提の中で生きている。

だから、自分の発言も誰かの発言も必ずしも正しいとは限らない。

そんなの当たり前だ、と思った方も中にはいる方も知れない。

しかし、驚くほどに人は偏見や思い込みで非合理的な判断をしているということが心理学の研究で分かっている。

心理学用語で「認知バイアス」といわれているものだ。

例を出そう。

「権威バイアス」という認知バイアスがある。

これは、権威性のある人が支持したことは正しいと思ってしまう認知バイアスだ。

1963年に実施されてきたミルグラムの実験で明らかになっている。

強大な権力を持つ誰かに、人を殺傷したり残虐な行為を命じれた時、良心の呵責に苛まれながらも、6割から8割を超える人々が命令に従ってしまうというものだ。

そう考えると、人間は非常に弱い生き物であるという事を自覚した方が、まだましなのではないかと私は思う。

自分はこうはなるまい、と思うよりも、こうなってしまうかもしれないと危機感を覚えていた方がまだましだと、私は思う。

騙される人ほど、騙されないと思っているからである。

他の事例もある。

あなたは「正義中毒」という言葉をご存じであろうか?

正義中毒という言葉の通り正義に溺れてしまった結果、集団のルールを乱す人を制裁しなければいけないという思いが強くなることだ。

悪は罰さなければいけない、という偏りから、エスカレートしていじめが起き、結果的に相手が死ぬまで追い詰めてしまうことになりかねないのが、この正義中毒である。

正しいか正しくないかの二軸では判断できないことが世の中にはたくさんある。

正しいか、正しくないものは悪だと決めつけるのは安易だ。

たとえば、カルト宗教などが分かりやすいが、カルト宗教に入ったものが他の人の意見を聞き入れなくなるのは、一つの事柄を正しいと思い込みすぎているからだ。

仮に正しくても、他人が受け入れるかどうかは他人の問題だと割り切ることもある程度必要だと思う。(法や倫理的な問題もあるから、どこまで許容するかはその事例にもよると思う)

自分の考えが正しさに染まりすぎないためにも、

私は、三つのことを提案したい。

一つ目は、自分の考えを常に疑い、自分と異なる意見に触れる機会を増やすこと。

二つ目は、正しい、正しくないという枠で見るのではなく、

あくまで仮説であるという余地を残しておくこと。

そして、

三つめは、たとえ他人が正しくなくても、ある程度は、人間だから、仕方ないという寛容さを身に付けることも必要だと私は思う。

それは、自分が間違えた時にも言える。

ちなみに、余談だが、私が自分の考えを疑うようになった本のきっかけは、

「99.9%は仮説」という本だ。

高校時代に読んでいたが非常に面白く、科学というものは二転三転転がるのかと楽しめたものだ。

自分と他人は違う。

他人は、他人の思考で生きている。

だから、発言する人は、相手の解釈や知識、能力それらを踏まえて、理解できないことを前提に受け入れた上で、発言する。

正しいと思ったことにはデータを添える。

疑う余地を残しておくことも必要だ。

一方、聞き手側は、

「誰が」発言したかよりも「発言内容」を鵜呑みにせず、

「根拠はあるのか?」

「本当にそう考えられるのか」

を疑いながら自分の中にある答えと照らし合わせながら考えるということも大切だとは思う。

もちろん、この話も仮説にすぎないといっておこう。

なぜなら、私もあなたも完璧な人間ではないのだから。

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