「長唄」の解説

初めまして、長唄三味線を弾いております杵屋直光と申します。
自分の所属する長唄宗家派「杵屋会」の年に一度の定期演奏会を機に「長唄」とはどんな音楽なのかをここにしたためていく所存です。
自分なりに調べたものなので間違っていたり「諸説あり」の拙い投稿となりますので遠慮なくご指摘頂ければ幸いです、しれっと修正致します。

1本目の記事ですが、以前お仕事の為に書いた「長唄」というジャンルについての投稿します。

歴史


長唄は歌舞伎舞踊の伴奏音楽として18世紀のはじめに成立した三味線音楽、元々は上方長歌と呼ばれる地歌の形式であったが江戸で歌舞伎音楽として使われるようになり享保~宝暦年間(1716-63)に事実上「江戸長唄」として確立したと言われ、その音楽性は歌舞伎の発展とともに成長し狂言、浄瑠璃、流行歌、民謡など様々なジャンルが積極的に取り入れられる。

初期には江戸らしい快活な「二上り」の小曲が好まれていたが人気女形の登場により上方風で優美な「三下り」の楽曲が見られ、宝暦3年(1753)には女形舞踊の最高峰とも言える「京鹿子娘道成寺」が初演される。

明和~安永年間(1764-80)には一中節から長唄の唄方に転向した冨士田吉治が、浄瑠璃がかった長唄、いわゆる「唄浄瑠璃」を開拓し常磐津、清元節に見られるような「語り」を取り入れた曲風が作られ、三味線に枷をつけた高音パート「上調子」もこの頃から用いられるようになる。またこの頃、劇中に役者の動きに合わせて伸び縮みさせ演奏される効果音楽「メリヤス」も流行する。

天明年間(1781-88)に入ると、立役(男役)が舞踊を演じるようになり、それまで劇中での舞踊は女形の領域であり繊細、可憐な曲風が多かったものから放胆・豪快な面白さが加わったものが作られ「内容本位」から「拍子本位」の曲風が増える。それにあわせ「合方」と呼ばれる唄の入らない三味線部分も箏曲の「手事」の影響を受けた器楽的な技巧を用い「本手」「替手」に別れ華やかに作られるようになる。

文化・文政期(1804-29)には「豊後系浄瑠璃」(常磐津・富本・清元)との「掛合」(交互演奏)とともに変化舞踊(一人の役者が次々に扮装を変えて異なる役柄、世界観を見せる演目)が流行し、これにより多種多様の作曲がされ、長唄は音楽的な完成度を高め、更なる発展を遂げることとなる。
音楽的発展につれ、大名や旗本・富豪・文人たちに長唄の愛好者が増え、邸宅や料亭に演奏家を招いて鑑賞することが流行し、歌舞伎舞踊から離れ純鑑賞曲としての長唄が作曲され始める、いわゆる「お座敷長唄」である。
またこの頃江戸浄瑠璃の一派で市川家の「荒事」の伴奏を務めた「大薩摩節」が荒事の衰退や三味線方不在などの諸問題で体制を維持できなくなり、家元の権利が長唄三味線方の10世杵屋六左衛門に預けられ、音楽そのものも長唄に取り込まれ、その後の作曲に大きな影響を与える。同じく江戸浄瑠璃「外記節」も復興が試みられ、モデル作品として「石橋」「外記猿」「傀儡師」が作曲される。

幕末から明治にかけて歌舞伎の高尚化への志向が高まり、能や狂言の歌舞伎化が盛んとなる。武士階級の芸能であった「能」を庶民文化である「歌舞伎」化することにより「歌舞伎」の格調のイメージアップとなった。「勧進帳」等が代表的な作品であり、「能」のもつ荘重な雰囲気を出すために前述の「大薩摩節」の技法が使われる。
また明治35年に発足された「長唄研精会」の作詞に有識者を迎える等の活動によって純鑑賞音楽としての長唄の地位が高まり、楽譜の普及により一般家庭へと長唄が浸透するようになる。
「研精会」に多くの詩を提供した坪内逍遥が「新楽劇論」を唱え、「国劇」を世界(西欧)に比肩する文化たらしめんとする活動が活発となり作曲に新たな演出や西洋的な観点がもたらされるようになる。
近現代においては各流派楽譜の普及により家庭音楽としての長唄が根付き、舞台においても明治期の能の歌舞伎化に続き狂言の歌舞伎化が進み、歌舞伎舞踊の音楽として更なる広がりを見せる。4世杵屋佐吉による「三絃主奏楽」により三味線が唄から独立し器楽曲としての発達も遂げ、杵屋正邦など「現代邦楽」の作曲・演奏家の輩出へと繋がる。

音楽的特徴

細棹三味線が使われ常磐津、清元など同じ下座音楽が「語りもの」と呼ばれるのに対し長唄は「唄いもの」と呼ばれ音楽的な要素が強く「替手」「上調子」「低音」などパートを分けての演奏、三味線だけの演奏部「合方」「合いの手」、お囃子が入るなど賑やかな楽曲が多い。
歌舞伎の伴奏音楽として発達したためあらゆるジャンルの要素を取り込み「本調子」「二上り」「三下り」の基本的なチューニングを楽曲のシーン毎に使い分け「一下がり」「六下がり」などの特殊なチューニングも用いる。「スリ」「コキ」「ハジキ」などの演奏技法も比較的種類が多く劇中の季節、場所、心情などあらゆる現象を表現し、フレーズ毎に何を表現しているかなど「決まり事」も多い。

演奏スタイル

三味線と唄とが分業制となり最小単位は唄一人、三味線一人の「一挺一枚」(唄が一人のことを独吟とも言う)。基本的には唄、三味線ともに同数が並び舞台の中央から演奏のバンドマスターを務める「タテ」と呼ばれる役割がおり三味線は舞台右上手につれ、唄は下手につれ「ワキ」「三枚目」「四枚目」…と続き一番端を「トメ」と呼ぶ。三味線の場合この「トメ」の位置に高音パートである「上調子」が座る場合もあり、通例として「上調子」は「タテ三味線」と同列の技術を要すると言われる。
演目によって背後に金、銀、鳥の子の屏風や松葉目が置かれ、山台に緋や紺の毛氈が敷かれる。山台の上段に唄、三味線が座り下段にお囃子が座る。
また歌舞伎であると下手黒御簾の中で演奏されることもある。
以上のように伴奏音楽として発達したため演目の内容によって多種多様な形式が用いられる。

演奏される場所

主に歌舞伎、日本舞踊の舞台で演奏され初期は天井の無い野外で演奏されてきたが劇場の建設により屋内での演奏が増えた、時代が進むにつれお座敷や家庭、ホールなどでの演奏機会も増える。

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