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玄関ツイート

※「路上ものがたり」シリーズ。路上で撮った写真から物語を考えます。

SNSではいつも大人しいあの子も、家の玄関の扉で行う短文投稿で思ったことをそのまま発信する姿で印象が変わってしまうことがある。

イエロー1色のアイコンで、その日に食べたおやつや好きな映画やドラマの話、道で見かけた猫のことをSNSに投稿する彼女。おやつは上げるが食事は滅多にあげない、好きな映画やドラマの話はするがおもしろくなかったものや物議を醸した作品の話はしない、猫は遠くに写したものか横向き、寝ている姿の写真だけで正面から撮ったものはなし、彼女の投稿は誰も気がつかないほどに気を使われていて、誰もがいつだって、安心して見ていられる。

政治の話はぜったい無し。論壇の意見にはリアクションもしないしニュースは見るだけ。トレンドに上がったハッシュタグにも連帯しない。

でも、何も言わなければ、何も言っていないことには誰も気がつかない。

もし彼女がとても有名で注目される人物だったら、そのことについて言わないことも発信になるかもしれないけれど、そうではないから。
彼女は自分の意見が誰も傷つけることがないように、細心の注意を払って言葉と写真を選んでいる。きっと彼女にとっては、彼女の言葉に誰も気がつかないことよりも、その言葉で誰かが傷つくことのほうが恐ろしい。

そんな彼女も、小学生や駅へ向かうサラリーマンが行き交う通りに面した自宅の玄関を前にすると、日々の生活の中に自分と社会を繋ぐ糸を見出し、抗えない思いに溢れてしまう。そこでは他者への”気遣い”は更に壮大な”気遣い”となり、彼女から見て直接会ったことはないがこの社会で最も生きづらいであろう人々への寄り添いの気持ちとして、時に悲しみや怒りをも伴ってそこに現れる。

自分と異なる意見を持つ他者の気持ちはこの時の彼女にとっては二の次、そこにあるのは自分の中にある本当の思い、ただそれだけである。

玄関先での短文投稿は誰でも行なうことができる。多くのSNSと同じように、利用は基本的に無料。不特定多数の人に情報を発信できる。より地域に根ざした情報や意見を発信する人もいるが、もっと大きな問題、世界や宇宙のこと、自分にとってだけ大切なことだって、なんだって書いていい。それも、SNSと同じである。

彼女がどうして玄関を前にすると思ったことをそのまま言葉にできるのか、その理由ははっきりわからないが、多くの人が、数あるSNSを器用に使い分けながら実際何食わぬ顔をして暮らしているのとだいたい同じようなことなのだろう。

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