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魔女はアボンリーを飛び出す。(Netflix「アンという名の少女」は世界を少し変える呪い)

2021年、NHKで最終シリーズseason3が放送された「Anne with E」(「アンという名の少女」)についてとりとめのないことを書き残しておきたい。

原作とかけはなれているか

L.M.モンゴメリ原作「赤毛のアン」、私もこの物語が大好きだった子ども時代を過ごした経験のある一人だ。図書館で村岡花子訳を読み、アンの真似をしてお墓を遊び場にしようと画策したり(「アンの青春」)、いちばん親しい友達たちと一緒に「赤毛のアンごっこ」と称して甘い比喩を取り入れた手紙のやりとりをしたり、中学時代に表彰された読書感想文の題材も「赤毛のアン」の続編「アンの青春」だった(作中に登場する自然豊かなプリンスエドワード島アボンリーの描写と、現代の地球温暖化を絡め、生活と自然の距離がかけ離れた社会に警鐘を鳴らすという滑稽なほど壮大な内容で、着眼点は面白いがあまりに作品の内容とかけ離れた感想という評価を受け佳作に終わった)。

多くの少女漫画が恋愛を主題にし、読者の少女たちがそれに夢中になるのと同じように、私にとっても赤毛のアンは居心地の良い青春物語だった。

Netflix「Anne with E」(「アンという名の少女」)はこの原作と内容がかけ離れている、という感想もSNS上では多い。それは事実で、原作には登場しないさまざまな登場人物が現れてはオリジナルストーリーが展開されていく。それは現代社会の問題を反映しているとも言われるが、私には、より現実的に当時の社会を描きこんでいるにすぎない、紛れもなく「アンの物語」だと感じられた。

当時、私が想像した、あまり空気は読めないが正しいことに必ず辿りつくことのできる女の子がこのドラマの中には生きていた。アンよりもアンであり、ダイアナよりダイアナ、ギルバートよりギルバート、マリラよりマリラ、マシューよりマシュー。原作にはないストーリー展開をはらみながらも、全ての登場人物が当時私が想像した物語の世界以上に美しい世界を生きている、そんな不思議なドラマだった。

美しい魔女の儀式……?

とにかく、この作品は美しい。原作を読んでいた頃の私には、近所のだだっ広いキャベツ畑も固く門の閉まった寺に隣接した墓地も近所の狭い公園に生えた毛虫だらけの3本の桜の木も、全てがかけがえのない美しい自然に見えたものだが、同じ現象がこのドラマを観ている私の感性に再び現れた。疲れた日の夜も、このドラマは美しいから観よう、と再生ボタンを押すことができる。押さずにはいられなくなる。この作品が原作とはかけ離れたストーリー展開を行い、様々な挑戦をしながらも受け入れられてしまう理由の大きな一つがこのことであることは間違いない。

美しい場面と共に、心臓を掴まれるような居心地の悪さ、悔しさ、悲しみも巧みに表現している点もこのドラマがアンの世界そのものである根拠だが、絶対に乗り越えることなど不可能であるはずの壁がこのドラマの中では例の美しさと共に気がつけば乗り越えられてしまう。

さまざまな美しい場面が登場する今作品の中でもおそらく少なくはない視聴者に鮮烈なイメージを残したのは、アンと友人たちが一種の陶酔状態で踊る彼女たちだけの秘密の儀式「メイ・クイーン」の場面である。ただし、全シーズンの中で最も美しい場面かもしれないこの儀式を見つめている間、私は感動と共に気が気ではない思いだった。

「この場面を他の村人に見られたら今度こそ、さすがにもう取り返しのつかないことになってしまう.......」

メイ・クイーンといえば作中でもアンによって語られているが、アンの両親の出身地であるスコットランドなど北欧に存在した古代ケルトの祝祭に登場するケルトの自然神である。アンたちは、女に生まれた幸せをメイ・クイーンに告げ歓喜の舞を踊るのだ。敬虔なカトリックコミュニティであるアボンリーでこの儀式を行うことはリスキーであることは誰にでも想像がつく。もはやこれは、見られたら最後、「アンは魔女だ」と言われても仕方がない。(私がこのドラマと並行して「ミッドサマー」「ウィッカーマン」を観ていたことも追記しておく)

しかし、この祭りは単に美しい場面として終わるので安心して感動していい場面である。私はそれを理解してからもう一度再生し、この場面をじっくりと味わった。そして、確信した。アンはたしかに現代に蘇った魔女であり、アンと共に踊る彼女たちも皆、魔女の儀式の片棒を担がされ、やがてそれは性別と年齢を問わずひとり、またひとりと増えていき、魔女たちはアボンリーを飛び出して世界をもう少し美しくするための呪いをかけたのだ。

モンゴメリが聞いたらひっくり返るだろうから聞かないでほしいが、私はこのドラマをこのシーン以来そのように理解している。

他にも、おっかなくて目を塞ぎたくなるような、いいぞもっとやれ!と言いたくなるような、アンの魔女的行動がこのドラマでは散見される。現実離れしていそうでもあるが、現実には名も無きこのような女性がこれまでの歴史のどこかにいなければこうやって暮らす私たちは今ここにいないのかもしれない。

乗り越えられなかった壁


少し話がそれるが、「Anne with E」はカナダCBCとNetflixとの間での交渉によりシーズン3エピソード27をもって終了している。実は、なんと未解決で終わっている問題がストーリーの中に取り残されている。それはカナダ政府の政策であった先住民族寄宿舎学校に関するストーリーだ。カナダ政府による同化政策の歴史は2021年6月に先住民寄宿舎学校跡で未成年の遺骨や墓が大量に見つかり日本でも報道され広く知られることとなった。インディアンコミュニティから子供を連れ去り、カトリック教会の運営する寄宿舎に収容し彼らに対する虐待も行われ、この政策は文化的なジェノサイドであったという報告がある。

ドラマの中では、アンとインディアンの少女の間の交流、生まれる友情、少女が寄宿舎学校へ連れ去られてからのアンたちによる抵抗の場面があるが、問題は明るみになることもなく少女は悲しみの中に取り残されてドラマは終了してしまうのである。これには多くの視聴者が心残りを感じているはずだ。

しかし、私はこう思う。私たちはこの少女の運命を知っているはずだ。アンが向き合ってきた様々な途方もない困難を見つめながら、私は自分が何をすべきかを知っている。私の生まれた国にも、恥ずべき歴史はある。現在も、どこかで私は様々な問題を見てみぬふりをしている。寄宿舎学校で帰れない我が家を思うインディアンの少女は、私の友人でもある。アンだけの、アボンリーだけの問題では最早ないのだ。

アンが女に生まれた喜びを歌い上げたあの場面を深夜リビングで眺めてから、私はアンの儀式に共に参加した同志であり、魔女のひとりになったつもりでいる。私はアボンリーではなく、私が生きる東京の外れのこの街の中で美しい自然を見つけ、守り、育てていくし、出会う人の権利が踏みにじられていたら迷わず行動しなくてはいけない。

さいごに

このとりとめもない感想の最後に、原作通りアンのパートナーとなるギルバートについても一言、二言触れておきたい。

正直、アン以上に異端児である。底抜けに突き抜けた存在であるアンという女性のパートナーとして全く申し分ない、十分に変わった人物だ。とにかく何でもそつなくこなす優秀な青年といった風で描かれているが、彼の行動力と好奇心、自立した考え方は明らかに抜きん出ている。医者の卵でありながら、先住民族の民間療法に関心を寄せる賢さを持つところなどはさすが魔女のパートナーである。でも、ギルバートならやるだろう、ギルバートならそう考えるだろうと思わせてしまうのがこのドラマの不思議だ。

演じるルーカス・ジェイド・ズマンもまたギルバート同様に植物療法の活用に関心があるなんて話もまことしやかにあり、自身のInstagramでは精神疾患を取り巻く偏見と差別をなくす活動を発信していたりと、自身の思想をはっきりと持った若者が地球に存在しているというのはそれだけでなぜか前向きになれる。

私の思い出補正と、魔女贔屓、ルーカス・ジェイド・ズマン贔屓があることを差し引いていただいても、一見の価値あるドラマであることを保証します。性別は問わず、いつか心にアンが暮らした経験のある方はそのアンがさらに魅力的になって還ってくること間違いなしの作品です。

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