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牛好きの私が2年間牧場で働いて感じた、命の儚さ、強さ。

多くの人が、牧場と聞くと、ピクニックができそうな草原で、のんびり屋な牛たちと、穏やかに仕事していることを想像するかもしれない。

私はニュージーランドの田舎で、1800頭の乳牛と一緒に牧場で働き始めて、早2年。

今年の11月で牧場を辞める決断をした。

牛が好き、動物が好き。という理由だけで始めたこの仕事で学んだことは、驚きの連続で、私の人生や考えを変えてしまうほど価値のある経験だと思う。

そんな私が、牧場で働き続けて感じたことや、経験の集大成を綴っていければな、と思う。

長くなりますが、読んでくださると嬉しいです。





私が住むニュージーランドのカンタベリー地方では、ほとんどの牧場が「季節分娩」といって、毎年同じ時期に牛が赤ちゃんを産むシステムを取り入れている。

私たちはその季節を「calving season(出産シーズン)」とよぶ。そしてこのシーズンのために一年を調整させるほど、忙しく、過酷で大事な時期。

忙しい時期には、一日約20−50頭仔牛が生まれる。
1800頭もの牛の出産と立ち会い、毎日介護をし続けていると、想像を超えるような出来事がたくさん起きる。


牛は出産後、milk fever と言って、カルシウム不足による代謝異常でたてなくってしまうことがある。
牛にとって「立つ」ということは、とても大事で500kgの体は立てなくなってしまうと、もう長く生きることはできない。

点滴を打ち、トラクタをー使って巨体を持ち上げ、立ち上がる助けをする。
そこまで支えることがで来ても、そこからは牛次第で、自分でたたなければいけない。



何度も何度も点滴をしてきて、いろんな牛を見てきた。
どんなに痩せ細っていても、絶対にあきらめない牛。フラフラになりながらも、歩いて自分で草を食べようとする姿を見ると、生きることに対する意志の強さを感じる。
体調から、体のコンディションから、この子はもうダメだろうな、と勝手に決めつけた自分が恥ずかしくなる。


逆に、まだ体調的には回復の余地があるのに、立ち上げることを、生きることをも諦めてしまう子。本人が諦めてしまうと、私たち がどんなに頑張って介護しても、治療しても、治らないことの方がほとんどだ。治ったとしても、また病気になったり、他の牛に虐められてしまって、痩せ細ってしまう。

「病は気から。」
という言葉は本当なのかもしれない、と何度も感じさせられる。



出産後に、母牛が見せる子牛に対する母性本能にもいつも魅了される。

生まれてすぐ、大抵の仔牛はまだ羊膜に包まれている。普通は母牛に舐めてもらい、羊膜から出て、空気を吸い出し、この世界の生き方を知る。
誰に教えてもらったわけでもないのに、初めての出産から、器用に母親をする。

子牛は生まれて早くて1時間以内には立ち上がりミルクを飲み始める。
元気に走り回ってる子もいるぐらいだ。
かつて野生で暮らしていたとき、狙われやすい子供が天敵から身を守るために備わった本能である。


でもこれだけ牛がいると例外ももちろん少なくない。

母にさえ見放され、雨と泥の中で冷たくなって死にかけてる子牛を見た瞬間はまたか、と思う。鼻や口に入った泥をかきだし、ミルクを胃に突っ込んでできる限り必死に温める。
回復の余地がない仔牛は、苦しみから解放してあげるために、銃で安楽死させなければならない。
仔牛の状態を見てその決断をし、ボスに報告するときには、いつだって自分が罪人であるかのような感覚におちいる。もしかしたら実際にそうなのかもしれない。

彼らはペットじゃない。でも一つの大切な命だ。境界線がわからず、何度も何度も涙を堪えた。
その現実と向き合い、悲しみと残酷かさから逃げずに、目の前にある命を限られた材料と時間で助ける。

この子は大丈夫、どうか良くなって、と半分願うような気持ちで、毎日毎日死にかけの仔牛を世話した数日後、自分でたってミルクを飲んでる姿を見たときには、言葉にできないような嬉しさと、尊さを感じる。
小さい体で、震えながら立ちあがろうとする姿を見ると、命の強さはロジックで説明できるものではないことを痛感させられる。

泥の中で母に見放された子牛
数日後に回復し、自分でミルクを飲む姿を見ると、何かに勝利したような気分になる



ときには私が出産介護直後から母牛の代役をすることもある。
羊膜を破き、心臓マッサージをする、口や鼻をきれいにし、呼吸ができるようにしてあげる。
その時は、かなり長く厳しい難産だったので、子牛もなかなか呼吸し始めなかった。
必死にマッサージを続けていると、
急に「ドクン」という脈打つ振動が私の手に伝わった。
心臓が動き始め、肺に空気が入っていく。
子牛の目が開き、咳込み始める。

言葉が出なかった。
この小さな生命の始まりをこの手で触れることが出来た喜びで、私は思わず泣いてしまった。
命の強さを、儚さを、その一瞬の出来事が全てを説明していた。

この尊さを、人間は知っているのだろうか。人間は感じているのだろうか。
お店でお肉を食べる時、朝起きて牛乳を飲むとき、どうかどうか思い出してほしい、
この美味しさは、命からきているということ。
そして私たちの命は、他の命によって生かされているということ。

この仕事をしていて、一番に感じるのは虚無感だ。
私たちが必死に助けた命を、牛たちが必死に生き抜いた命を、人はモノのように扱う。ビジネスに使う。資本社会の効率化に「命」を当たり前のように捧げる。
動物がかわいそうだからという理由でなるビーガンは個人的に嘘くさくて嫌いだ。でも、私たちの幸せは他の命によって繋ぎ止められているという悲しい現実を、より多くの人に知っていてほしいとは思う。



牧場で働き始めて1ヶ月そこらの時、自分の人生を左右するような出来事を経験したことがある。

その日は、仔牛がいる牧草地の中をトラクターと餌やりのワゴンで通らなければいけなかった。
仔牛たちは、私が餌をあげることを知っているため、ワゴンの周りにワラワラとよってくる。それでも目的の場所まで、注意しながら運転しなければいけない。
何度もその牧草地を通っていて、仔牛はワゴンの下に入れるほど小さくないことは知っていたし、その日はかなり忙しく、少し急いでいた。


急に、隣に座って後ろを見ていた同僚に「STOP!!!!!」と怒鳴られた。
一頭の子牛が、後ろの方でぐったり倒れている。
遠目から見てもわかるほどに、息はあるが、足は無残なままに折れている。
他の大きい子牛に押され、ワゴンの下に入り込んでしまったんだろう。
私は何が起きたか一瞬で察し、青ざめ、真っ白になった。
同僚がボスに電話で銃を持ってくるように話している声が微かに聞こえる。
涙が止まらなかった。


奪われるはずじゃなかったなんの罪もない一つの命を、私の「不注意」で奪ったのだ。
同僚は「仕方のないことだよ。」と私を慰めてくれた。
でも「仕方のないこと」で済まされるのだろうか、相手が人間だったら私はきっと罰を受けているだろう。

次の日には、いつも通り朝が来て、いつも通り同僚と笑い合って、何事もなかったかのように、普通の1日を過ごすのだろう。
それを当たり前のように考えている自分の汚さに、世界の不平等さに、嫌気がさした。彼らの命も、わたしたちと同じ命なのに。

朝が早くて、重労働で、どんな悪天候でも1度もやめようと思ったことはなかったが、この時は本気でやめようと考えた。


牛たちはもうわたしたち抜きでは生きられない。だから一つの小さな失敗が、何頭もの命を奪うこともある。
いちワーカーだとしても、命を扱う人間の一人として、ある程度の覚悟と責任は持っていなければならない。
牛が好きという理由で始めた私にはその準備が全然できていなかった。
この責任は、重くて辛い。目を背けてしまいたくなる


ある人に、牛が好きなのに、牛が死ぬの見てられるの平気なんでしょ?牧場で働いているのは矛盾している、と軽蔑の目を向けられたことがある。
正直傷ついた。
もしかしたら自分は、冷酷なのかもしれない、と思ったこともある。

でも、ここには私だからできることがある。私だから助けられる命がある。
どんなに疲れていても、どんなに大変でも、雨だろうが、嵐だろうが、助けれる命を自分の手で助けられるなら、なんだってやる。
その信念だけは変えずにやってきた。

外部から冷たい目をむけ、表向きの感情だけで誰かを責めているひとよりも、よっぽどたくさんの命を助けてきた自信がある。

そしてもうすでに、私が助けた命が、健康になって母親として戻ってきてくれている。私が頑張れば頑張るほど、彼らが幸せになれる。自分にとってこんなにも幸せなことがあるだろうか。

誰かのせいにして、問題から目を背けるのは一番簡単だ。
簡単に答えが出ないようなことと向き合うのは正直怖い。
でもそれがみんなで作ってしまった資本主義のクソみたいなシステムで命を奪う私たちができる最大限のことだと思う。彼らに対する礼儀だと思う。


自分がやっていることを、称賛したり、美徳だとは決して思わない。
こんな仕組みを作ってしまった人類の一因として、逃げずにその悲しみと真っ向から正直に向き合い、目の前にある一つ一つの命をできる限り大事にすることが、私の使命なんじゃないかなと勝手に思う。

何より、自分が助けて、育てた仔牛たちが、元気な牛に成長していく時。
どんなに過酷な天気・環境でも、産み落とした自分の子供を守ろうとする母性本能を見た時。
本能で生きるそんな彼らの生命の手助けをするということ。
この「きれい」で塗装された現代社会では得ることができないような、美しく、儚く、どこか残酷な、何か大切なことを教えてもらっているような気がする。
合理主義や資本主義では説明できない、大きなモノに毎日触れられることに感謝している。

そして、素直で、純粋で、優しくて、ときに狂ってる(笑)
そんな牛たちのそばにいられること、彼らの人生の一部になれること、
私の心をいつも温かくしてくれる彼らと働けること。
本当に本当に、いつも感謝でしかない。
きっとこの先もクリアな答えは出ないと思う。
それでもただただ正直に真っ直ぐに彼らの命と向き合っていこうと思う。




最後まで読んでくれてありがとうございます。
これはあくまで私が経験して、感じた中で得た意見です。
自分の意見がみんなにとって正しいとも思っていないし、強要している訳でもありません。
それでも、誰かの心に少しでも響いてくれたら、自分の意見を恥ずかしながら出した甲斐があります😊

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